1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. スポーツ
  4. スポーツ総合

「松平サーカス」で会得した世界一への技…ミュンヘン五輪男子バレー金メダルの奇跡<4>

スポーツ報知 / 2024年7月29日 12時0分

1972年9月11日 ミュンヘン五輪男子バレーで優勝して胴上げされる松平康隆監督

 パリ五輪で世界ランク2位の男子バレー日本代表は石川祐希、高橋藍ら充実戦力を有して金メダル獲得に挑む。日本が五輪の頂点に立てば1972年ミュンヘン五輪以来52年ぶりとなる。松平康隆監督が率いた半世紀以上前の日本代表の“秘話”を、スポーツ報知が「あの時」と題して2016年に掲載した連載を再録する。(全5回の第4回)

*****

 松平は監督就任直後から「どんなバカみたいなことでもいいから考えろ」と新しい攻撃パターンを選手たちに命じた。

 木村は19歳でのソ連遠征での屈辱が契機となった。当時、中大のエースで、日本では怖いもの知らずだった。だが、ソ連との初戦で4連続ブロックを食い、その後の試合では起用されなかった。帰国する船で松平は「(世界では)チビだということが、分かっただろう」と話しかけた。木村は「どうしたら、大きな選手を相手にスパイクを決められるか」と、1年かけて完成したのがBクイックだった。それまであったAクイックがセッターからの短いトスをスパイカーが速攻で打ち込むのに対し、Bは長いトスからの速攻。攻撃の幅が大きく広がった。

 その後、セッターが前方にトスを上げると見せかけて、後方にAのタイミングでトスを上げるCクイック、時間差攻撃が完成した。

 森田が1人時間差を生み出したのは、練習中のミスがきっかけだった。「クイックに入ろうとしたら、時間差のトスが上がり、タイミングが合わなかった。だけど、ボールはまだ宙にあった。ポンと打ったら、ブロックもいなくて決まった」(森田)。これをヒントに、その動きを習得。相手チームは、森田がミスをしたと思ったら、そのあとにスパイクを打ってくるので、ついていけなかった。この後、大古がまさにZのような文字の動きでスパイクを打つ、Z攻撃を編みだし、多彩な攻撃陣がつくり上げられた。

 守りでは、フライングレシーブを考案。時速100キロを超えるスパイクに対応するためには、飛びながらボールを空中でカットする必要があった。何度も飛び込んでの練習で、選手たちは顎を切った。当時の体育館は木のくぎが出ているところがあり、そこに顎がぶつかったのだ。医務室で傷を縫って戻ってきても、練習は続けられた。

 「惜しいではだめなんだと、何度もやらされた。体罰はなかったけど、松平さんは妥協しなかった。それが世界一を目指すことだと思った」と木村は振り返った。日本協会科学技術研究員だった斎藤勝がトレーナーとなり、特殊な体操や、バック宙やバック転を取り入れた。ボールをロープのついた網に入れ振り回し、その上を選手が飛んでいく練習もあり“松平サーカス”と呼ばれた。「空中の動作や、連続の動きや俊敏性を身に付けられた」と斎藤。

 万全の臨戦態勢で、9月9日、東ドイツとの決勝を迎えた。(久浦 真一)=敬称略=

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください