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銅メダルの早田を支えた石田氏、勤務先退職→中3から専属コーチ「ひなは努力する能力を持っている」

スポーツ報知 / 2024年8月4日 6時0分

銅メダルを獲得し喜ぶ早田ひな(左)と石田大輔コーチ(カメラ・小林 泰斗)

◆パリ五輪 第9日 ▽卓球(3日、パリ南アリーナ)

 3日の女子シングルス3位決定戦で、初出場の世界ランキング5位、早田ひな(24)=日本生命=が同8位の申裕斌(シン・ユビン)=韓国=を4―2で下し、銅メダルを獲得した。日本勢のシングルスでのメダルは、2016年リオデジャネイロ大会銅の男子・水谷隼、21年東京大会銅の女子・伊藤美誠に続き3人目の快挙となった。

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 早田が中学3年時から指導する石田大輔コーチ(44)は、“チームひな”として共に歩んだ10年間を語った。

 4歳の時、石田氏の両親が運営する石田卓球クラブ(現・石田卓球N+)で競技を始めた。「父と母から『かわいい子が入ってくれた』と聞いていた。(練習に)顔を出すと、人さし指でツンツンとして」。決して“天才肌”だと感じたわけではない。とにかく一生懸命に練習する子だった。

 卓球の複雑な動きで構成する技を覚える工夫で“ひな語”は生まれた。小学生時代は多くの技を習得するが、「やはり小学生なので(試合で使う時に)忘れてしまう」。そこで卓球場でかかっていたBGMから「今やっているのは“さくらんぼドライブ”にしよう」と名付けてみた。ちょうど大塚愛の「さくらんぼ」が流れていた。大人になってからも、卓球経験のないスタッフも覚えやすいよう、状況とリンクさせた呼び方を継続。ミドルをつかれた時に「足を動かして処理をする」という“パラパラチャーハン”などはチームひなの合い言葉になっている。

 将来性を確信した大一番があった。早田が中学2年の14年全国中学校大会決勝。前回女王の早田は、同学年のライバル・伊藤美誠と対戦し、フルゲームで制した。「勝ち負けよりもすごい試合だった。このまま大人になったら、世界で通用するんじゃないの、この子たちは…」。決勝のプレーが契機となり、石田氏は翌年に務めていたミズノ社を退職し、早田の専属コーチとなる決断をした。「ミズノの仕事が好きだったから、後に絶対に後悔すると思った」というが、この10年間一日たりもそんな日はなかった。

 中学3年の全中後から国内外の全ての試合に同行し、負傷した時には拠点の大阪から接骨院まで往復で約2時間の送迎も行う。練習中の指導に加え、朝、昼、晩の食事もつくる。けがをしにくい体づくりを意識している現在は、補食も含めて一日6食分だという。会社員時代にたしなんでいたお酒も10年間口にしていない。「常にひなの一番近くでサポートしたい」と、人生を懸けて共に夢を追ってきた。

 早田は夢を諦めなかった。石田卓球N+の壁にかかるネームプレート。その隣に「めざせパリ、ロサンゼルスオリンピック出場」と書かれている。21年東京五輪は、共に同学年の伊藤、団体戦要員には平野美宇が選ばれた。「五輪がダメだった時はうれしいわけがなく、つらくて、この先も、もし五輪に出られなかったらどうしよう…」と石田氏はナーバスになった。だが、早田は違った。五輪代表落選からわずか8日後に初戦があった20年全日本選手権シングルスで、決勝で同代表の石川佳純を4―1で破って初優勝。このVからパリへの道がひらかれた。「ひなは一寸の迷いなく、絶対に五輪に出る気持ちで戦っている」と思いに気づいた時、「過去イチ幸せな大会だった」と不安や迷いは消えた。

 石田氏はパリを1つの「集大成」と位置づけている。20代の選手だった当時は「試合で中国選手を見ただけで『お~』と感動して。ファンぐらいの感覚だった」。2月に韓国で行われた世界選手権団体戦決勝で、早田は東京五輪2冠の陳夢(中国)を3―1で破った。共に歩んだ10年間で中国の存在は、確実に近づいていた。10年間そばで見てきた同氏は「ひなは努力する能力を持っている」と信じて懸けてきた。勝負の世界は努力が報われる人も一握りだが、努力しなければ、夢の実現は皆無。初の五輪メダルは、早田を信じ続けたコーチの願いも、形にした。(宮下 京香)

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