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セーリング470級の岡田奎樹、唐津の海がもたらした、亡き恩師との絆…パリ五輪

スポーツ報知 / 2024年8月8日 22時50分

重由美子さん

◆パリ五輪 第14日 ▽セーリング 混合470級(8日、マルセイユ・マリーナ)

 2018年12月9日未明。佐賀・唐津市内で、1人のオリンピアンが静かに息を引き取った。1996年アトランタ五輪セーリング女子470級で銀メダルを獲得した重(しげ)由美子さんだ。53歳。日本セーリング界にとって、あまりにも早すぎる訃報だった。

 兄の陽一さんは「頑張ったんだけどね」と、6年経った現在でも言葉少なだ。重さんと切磋琢磨し、指導者としても、ともに歩んできた佐賀県ヨット連盟の中山英弘副専務理事は「最初は肩が痛いって言っていたんです」とくちびるをかんだ。乳がんだった。

 重さんは、兄の影響で小5からセーリングを始めた。唐津東高を卒業後、佐賀県ヨットハーバーの職員となった。指導員をしながら、1992年バルセロナ大会、アトランタ、2000年シドニー大会と、3大会連続で五輪に出場した。

 重さんが亡くなる1年ほど前、1人の青年が重さんのもとを訪ねた。早稲田大ヨット部にいた岡田奎樹だった。当時、重さんは入退院を繰り返していたが、勤務先の同ハーバーで、岡田は、むさぼるように五輪の経験を聞いた。

 岡田は、唐津西高時代、3年間、重さんから厳しくセーリングの基礎をたたき込まれた。「五輪で金という目標があった。それには、メダルを獲得した人じゃないと、難しさや心構えが分からない」と、重さんの教えを請うために福岡から唐津に越境入学した。

 高校3年間、授業や食事以外、日の出とともに海に出て、日の入りとともに陸に上がる繰り返し。教えは「帆走速度」、「マーク回航の動作」という基本2点だけ。厳しく単調な日々に、やんちゃ盛りの岡田は「いつも逃げていた」。

 それでも五輪の夢があるからこそ、必死でついて行った。しかし、重さんから帰ってくる言葉は、いつも「オリンピックはまだ早かね~」だった。ようやく許しが出たのが、岡田が早大3年の2016年、ジュニア世界選手権(現ユース世界選手権)で優勝し、報告したときだった。ただ、それも「(五輪は)これからだね」だった。

 岡田は、風や波を読む天才だと言われる。中山副専務理事は、岡田が小さい頃、「(風や波は)カモメが教えてくれるんです」と話していたのを聞いている。重さんも、兄陽一さんによると、「海を見ただけで、波の形や色が違い、ゾーンに入ると(進む)道が見えると言っていた」。天才は天才を好むと言うことだろう。

 2021年東京五輪でメダルを逃した岡田が、「重さんにメダルで恩返しをしたかった」と言っていたと、中山副専務理事は話す。唐津の海は、玄界灘に面する。今年の酷暑の海は、何かを蓄えるかのように、静かな水面を見せていた。

 兄の陽一さんは「北風になると、どかんどかん(風が)入ってきて、それはすごい。妹もそれをずっと見ていた」と、冬の海の激しさを話す。酷暑、強風、荒波の中で、しっかりと築き上げた師弟の絆が、五輪の舞台をもたらした。重さんは唐津市内の浄土寺にある納骨堂に、静かに眠っている(吉松忠弘)

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