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「次は左で打ってごらん」中学生だった王貞治さんが左打ちに転向したきっかけは偶然出会った運命の人

スポーツ報知 / 2024年9月3日 5時40分

1962年、荒川コーチから一本足打法の特訓を受ける王(左)

 巨人球団創設90周年記念の連続インタビュー「G九十年かく語りき」の最終回を飾るのは、世界のホームラン王・王貞治さん(84)=現ソフトバンク球団会長=だ。長嶋茂雄さんとの「ONコンビ」で栄光のV9。47年前の1977年9月3日には、ハンク・アーロンを抜く世界新記録756号を放ち、日本中を熱狂の渦に巻きこんだ。メモリアルデーを前に、野球人生の喜怒哀楽を語った。(取材・構成=太田 倫、取材協力=報知新聞社OB・田中 茂光)

* * *

 一本足打法は誰もが考える打ち方じゃないよ。「足を上げてみろ」という荒川博打撃コーチの提案を素直に受け止められたのは、思うように打てなくて、ワラをもつかむ気持ちになっていたときだったからだ。

 僕は“詰まり屋”だった。要するに、バッティングの始動が遅いわけだ。どうしても詰まるのを、詰まらないようにしたくて変えたんだ。どうなってもいいから打てるようになりたい。その一心。ホームランのことは全然考えていなくて、言ってみれば副産物だった。

 初めて一本足打法で打ったのは、62年7月1日の川崎での大洋戦。ダブルヘッダー第1試合だった。前日の試合で打てず、ひどく落ち込んでいた。切羽詰まっていたからこそのぶっつけ本番だった【注】。稲川誠さんから第1打席に右前安打、第2打席に右翼にホームラン。結果が出たのは、僕の運の良さだった。あのホームランがなければ、一本足打法は完全に消えていた。記者も、評論家も、最初は誰も打ち方が変わったのに気がつかなかった。

 荒川さんとは中学2年生の秋に隅田公園で出会った。僕は高校生のチームに交じって野球をやっていて、まだ右打ちだった。偶然そこへ通りかかったのが、当時毎日オリオンズの選手で、近くに住んでいた荒川さんだった。

 右で打てなかった僕を見て「次は左で打ってごらん」。それで打ったらたまたま二塁打が出た。「ほら、打てるじゃないか」となったんだね。早実に進んだのは、OBの荒川さんに勧められたのもある。のちに巨人で再会するが、荒川さんがいなかったら、右打ちのままだったかもしれない。野球にのめり込むきっかけを与えてくれた人だった。

 長嶋さんとの出会いも幸運だった。野球人生において、長嶋さんという存在はとてつもなく大きい。選手としてのミスターとも、素のミスターとも触れ合えたっていうことがね。

 その存在感、プレーの躍動感。一プロ野球選手の枠を飛び越えていた。聞けば、どうすればファンが喜んでくれるかを、常に考えているという。球界をトップで引っ張っている人と、ただただ無我夢中で打つことばかり考えてやっていた僕らとでは、意識からして全然違っていた。ミスターはプロとして大人で、僕らはまだ子供だったとも言える。

 金田正一さんのような年上の人たちも、ライバル球団の選手も、誰もが一目置いていた。メディアも長嶋さんの記事を書けば売れる。みんなが引きつけられていた。

 例えるなら、燦然(さんぜん)と輝く太陽みたいなもの。ミスターは本当に特別な存在なんだよ。

 【注】62年6月30日の大洋戦で苦手としていた左腕・鈴木隆の前に2打数2三振。7月1日の試合前には、別所毅彦コーチが荒川コーチに対して王を名指しするなど打線の不振を追及。荒川コーチが「王に本塁打を打たせる」とたんかを切る一幕もあった。

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