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松井秀喜さん「落合さんが泣くとは…」10・8決戦から30年「究極のゲーム」の秘話語る

スポーツ報知 / 2024年10月8日 5時0分

94年10月8日、中日戦の5回無死、右越えに20号ソロを放つ松井秀喜

 伝説の「10・8決戦」から8日で30周年を迎えた。1994年10月8日、巨人は中日との史上初の同率首位決戦となったリーグ最終戦に6―3で勝利してセ・リーグを制覇。「国民的行事」と位置づけて臨んだ長嶋茂雄監督(現巨人軍終身名誉監督、88)が5度、宙を舞った。巨人入団2年目でフル出場した松井秀喜氏(50)は「あの試合を経験できて幸せだった」と回顧し、4番を務めた落合博満氏(70)の秘話などを明かした。(取材・構成=阿見 俊輔)

 10・8から30年たって50歳になった今、振り返っても、あれ以上の試合はないですね。長いシーズンをずっと戦ってきて、最後の試合で勝った方が優勝という、これ以上の状況は考えられない究極のゲーム。ジャイアンツの歴史に残る一戦にもなって、今でも語り継がれている。当時も思いましたが、入団2年目の二十歳であの試合を経験できた私は幸せでした。

 まだ2年目の若手でしたので、試合に対する怖さはそこまでは感じませんでした。経験があったら、勝ち負けや個人の結果などをいろいろと考えたのかもしれません。試合の重要性はもちろん分かっていましたが、負けたらどうしようとか、勝敗を背負うような感情まではなかったです。後から知ったのですが、前夜はほとんどのチーム関係者が名古屋の街に出ていなかったらしい。でも私は普段の名古屋遠征の時と同様に、当時行っていた割烹(かっぽう)料理店に夕食を食べに出かけて、いつもと同じように過ごしました。

 試合前の緊張という意味では、プロで初めての日本シリーズの方があったかもしれません。今はシーズンで優勝できなくても、クライマックスシリーズで勝てば日本シリーズにいける。当時の、負けたら終わり、という普段の試合にはない張り詰めた空気は、高校野球の感覚に近かったかと。普通の試合とは全く違う雰囲気は、ファンやマスコミの熱狂が作っていた部分もあると思います。

 あの試合、同点の3回無死一塁で、バントのサインが出ました【注1】。これ以上、バントにふさわしい状況はなかったですし、いつも以上にしっかりとサインを見ました。当日の試合前、バントの練習は普段と変わらずフリー打撃前の2、3球だけでしたが、緊張はなかったです。確かにバントは簡単ではありませんが、相手がそんなに警戒していなかったから、それほど難しいボールがこなかった。5回のホームラン【注2】の頃は、落ち着いてきていましたし、独特の雰囲気にも慣れてきていましたね。

 長嶋監督は緊張なんかしていなかったと思います。むしろ監督は、あの試合を楽しんでいた感じがしました。現役時代、大きな試合ほど燃えたという、まさにその感じ。ミーティングでも、いつもよりも気合が入っていました。「絶対に今日はジャイアンツが勝つ」と何度も言っていたのは間違いない。私が聞き落としている可能性もなきにしもあらずですが「勝つ、勝つ、勝ーつ!」と連呼した感じではなかったと記憶しています。

 名古屋という敵地での決戦だったから、なお一層チームの空気が高まったのかもしれません。もし東京ドームだったら、それぞれが自宅から自分の車などでバラバラに球場入りしたでしょうが、あのときは、泊まっていた名古屋の都ホテルのミーティングで最高に気分が盛り上がって、そのまま、みんなそろってバスに乗ってナゴヤ球場に向かった。だから敵地に乗り込んで行く、という気持ちが自然と出たような感じがします。

 あの日、落合さんばかりを見ていたわけではないから、詳しくは覚えていないですが、そんなにいつもと違った様子はありませんでした。内心は違ったのかもしれませんが。だから、試合が終わって泣くとは思ってもいませんでした。

 振り返って、普段の落合さんと違っていたのかなと感じるのは3回の一塁守備の動き【注3】です。立浪(和義)さんの二塁寄りのゴロを捕りに行った際に足をけがしたのですが、あれは普段だったら、逆シングルで捕っていると思います。私は右翼を守っていて、当時は後ろから落合さんの守りを見ていた。打球はイレギュラーしているのですが、大事な試合だったからこそ、丁寧に正面に入ろうとしたのではないかと。すごく細かいところに、深層心理が出たのではという気がします。

 あの試合を経験できたのは幸せでしたが、私の野球人生のプラスになったかどうか、どう影響したのかは、はっきり分かりません。もしも負けて悔しくて、それをエネルギーにしてすごい成績を残したりとか、その後、ジャイアンツが何連覇もしたりとか、そういうことも考えられますから。ただ、あそこで勝つのと負けるのとでは、全く違う記憶として残るわけです。あのような試合をやって、ジャイアンツが勝った。だから、今でもいい思い出なのは確かです。

【注1】2―2の同点で迎えた3回、先頭の川相が中日先発の今中から右前打。続く松井は初球、バントを試みたが三塁線にファウル。2球目を三塁前に転がして犠打を決めた。

【注2】5―2と3点リード、5回先頭で迎えた第3打席で中日2番手の山田のカーブを捉えて、右翼席中段に20号ソロを放った。

【注3】一塁手の落合は3回、立浪のゴロを処理しようと両足を広げて踏ん張った際に左内転筋を痛め、中畑コーチに背負われてベンチに下がった。ベンチできつくバンデージを巻いていったんは守備に戻ったが打球を追えず、4回表終了後に交代した。

 ◆松井 秀喜(まつい・ひでき)1974年6月12日、石川県生まれ。50歳。星稜時代に甲子園4度出場。高校通算60本塁打。92年ドラフト1位で巨人入団。リーグMVP3度、首位打者1度、本塁打王、打点王各3度獲得。2003年にヤンキースへFA移籍し、09年ワールドシリーズで3本塁打を放ちMVP。エンゼルス、アスレチックス、レイズを経て12年限りで現役引退。13年に巨人・長嶋茂雄終身名誉監督とともに国民栄誉賞受賞。日米通算2504試合、打率2割9分3厘、507本塁打、1649打点。

◆94年の巨人 球団創設60周年で長嶋第2次政権の2年目。中日からFAで落合を獲得していた。4月から首位を独走し、5月には槙原が完全試合を達成。一時は2位に最大10ゲーム差をつけ、前半戦を48勝30敗で終えた。しかし、8月下旬から8連敗を喫するなど急失速。9連勝などで猛追してきた中日に最終戦を前に並ばれたが、「10・8決戦」を制し4年ぶりの優勝を果たした。西武との日本シリーズも4勝2敗で制した。

 ◆10・8決戦 1994年の最終130試合目にナゴヤ球場で実現した、巨人と中日による史上初の同率首位(69勝60敗)同士のシーズン最終決戦。長嶋監督は「国民的行事」と表現し、視聴率はプロ野球史上最高の48.8%(関東地区)を記録した。継投した「3本柱」の先発・槙原寛己と2番手・斎藤雅樹は中1日、抑えの桑田真澄は中2日のスクランブル登板だった。

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