巨人90年の歴史で一度だけ 高校の校庭で公式戦 川上哲治が2安打
スポーツ報知 / 2024年10月13日 6時30分
巨人の90年の歴史で、プロ野球の公式戦を高校の校庭で行ったことが一度だけあった。1950年7月18日、新潟県立柏崎高校グラウンドで行われた大洋との一戦は、全盛期の川上哲治が2安打と気を吐いたものの、1―5で敗北。地方で行われた試合だったからか、当時の全国紙には結果とスコア、短評しか残されていない。全国的には注目されなかった戦い。それでも、戦争が終わって5年たった柏崎市にとっては復興を象徴するイベントでもあった。(樋口 智城)
柏崎高の阿部英敬教頭(60)に案内されて向かったグラウンドは、かつてプロ野球が開催されたのもうなずける広大さだった。「敷地内に体育館などが建ったので、当時からは狭くなっているんですけどね」と阿部教頭。練習を終えた野球部員に「74年前、ここでプロ野球の公式戦があったんだけど知ってる?」と聞くと「え? 本当ですか? 聞いたことないです」ときょとんとした顔で答えた。
1950年7月18日。1万2000人の観客を集め、巨人―大洋の試合が午後2時から始まった。当時の巨人は、右腕・藤本英雄が6月28日にプロ野球初の完全試合を達成したばかり。30歳の川上哲治は、この年のシーズン中の練習で「ボールが止まって見えた」の名言を残すほどの絶好調ぶりだった。それでも、結果は完敗。先発・藤本は9回を5失点。4番・川上が二塁打を含む2安打を放ったものの、大洋の本間鉄和、高野裕良の継投に1点しか奪えなかった。
なぜ巨人の試合が高校の校庭で行われたのか。柏中・柏高OB会事務局の村田孝夫さん(78)は「いやぁ、私も長年、柏崎に住んでますが、試合が行われたこと自体知らなかった。1950年だと、私は4歳だったんですが…」と話す。ほかのOBにも聞いてもらったが「2軍戦で馬場正平(後のプロレスラー・ジャイアント馬場)が高校のグラウンドで投げたことはみんな知っていた。でも、誰も公式戦の記憶がない」と苦笑いだった。
そこで、村田さんに当時を知る参考資料としてOB会報「柏高親友会報」などを持参していただいた。同会報などによると、戦時中の柏崎高グラウンドには芋畑が作られていたという。戦後の47年にはボコボコだったグラウンドを整地。49年に夏の高校野球の地方大会を開催するため改修し、高校では珍しかった内野スタンドなどを整備した。
50年にはプロ野球開催に併せて、外野に約1メートルほどの金網柵やダッグアウトも仮設。村田さんは「このタイミングでのプロ野球開催は、柏崎市の人たちにとっては、戦後復興の象徴だったかもしれませんね」と当時に思いをはせた。
柏崎市は50年7月に市制10周年を迎え、盛大な行事を連続して開催していた。同21日には高松宮さまがご臨席して市内で記念式典も開かれた。プロ野球開催は、10周年行事の一つとして市側が日本野球機構に掛け合い、当時の人気ナンバーワンだった巨人の試合が実現したものだった。同年6月21日付の地元紙・柏崎日報には「主催者柏崎野球協会」と地元が主体になっていたことが明記されており、運営委員が上京して関係各所に働きかけたこともつづられている。
それから74年。同市で巨人戦が開催されたという事実は、人々の記憶のかなたに消え去ろうとしている。村田さんは「あまりに10周年イベントが多すぎて、プロ野球開催もお祭りの一つとして埋もれてしまったのかもしれません」と話す。現在の柏崎高は、プロ野球の試合が開催されたとは思えないような普通の学校。ただ、グラウンドのバックネット裏には、当時のコンクリートのスタンドの一部が残されている。
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