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【齋藤彰俊ヒストリー《2》】プロレスラーへの道につながる中京高校時代…11・17愛知県体育館「引退試合」

スポーツ報知 / 2024年11月2日 12時0分

齋藤彰俊(写真提供・プロレスリング・ノア)

 プロレスリング・ノアの「TEAM NOAH」齋藤彰俊が17日に愛知・名古屋市のドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)で引退する。空手家からプロレスへ転身しデビューは1990年12月20日、愛知・半田市民ホールでの「パイオニア戦志」。以後、新日本プロレスで「平成維震軍」などで活躍し一気にトップ戦線へ食い込むも退団。2年間、リングから離れ2000年からノアに参戦し09年6月13日には、リング上で急逝した三沢光晴さん(享年46)の最後の対戦相手となる過酷な運命も背負った。当時は、一部の心ない人々から激しい誹謗(ひぼう)中傷を受けたが逃げることなくリングに立ち続けファンから絶大な支持を獲得した。今年7月13日の日本武道館大会で潮崎豪に敗れ引退を決断した。スポーツ報知では、波乱万丈だった34年あまりのプロレス人生を「齋藤彰俊ヒストリー」と題し引退試合の17日まで連載。第2回は「プロレスラーへの道につながる中京高校時代」。

(福留 崇広)

 宮城・仙台市で生まれ育った小学校、中学校に平泳ぎで全国トップの成績を残した齋藤は、東北地方を中心に様々な高校からスカウトが舞い込んだという。しかし、入学したのは全国的にも競泳の名門だった愛知・中京高校(現・中京大中京)だった。

 「おかげさまで中学を卒業する時に東北地方や東京の水泳が強い高校からお誘いはあったけど中京からは誘われなかったんです。なので、そこに行ってやれと思って受験しました。中学生ながらも自分なりの反骨心だったと思います。この精神も常に何かにチャレンジするプロレスから学びました」

 高校の同級生には、野球部で後に阪急(現・オリックス)から1983年にドラフト1位で指名される野中徹博、広島に3位指名される紀藤真琴がいた。中でも野中との初対面は忘れられない。

 「最初の出会いが廊下でぶつかって自分が『オイ!てめぇ』と言ったんです。殴り合いにはなりませんでしたが、お互いに引かなかったですね(苦笑)。自分も当時は今と同じぐらいの身長(177センチ)ありましたが、野中の方がデカくて横も分厚かったですよ。その後からは、べったりではなかったんですが、普通に話をするようになりました」

 仙台から越境入学。住まいは、豊田市にある中京大の水泳部寮だった。中京高校水泳部は、タイムで大学のプールで練習する選手と高校で汗を流す部員と分かれたという。タイムの上位者は大学での練習に選抜され齋藤も抜てきされたのだ。

 「練習は朝5時から大学のプールで2時間ほど泳いで、電車で名古屋市内の学校へ通学です。朝は4時起きでした。放課後も夜8時過ぎぐらいまで2時間以上、練習しました。泳ぎ込みの時は1日1万メートル以上は泳ぎます。朝は3000メートルから5000メートル。夜は1万ですね。休みは木曜日だけでした。きつかった練習はロケットスイムと呼ぶ練習です。これは例えば100メートル泳ぐなら、はじめの75メートルはダッシュで泳いでラスト25メートルは潜水なんです。この最後の潜水が苦しくてキツかったです」

 部活以外でも「活動」した。

 「高校3年の時に自分が頭でクラスを超えたチームを作りました。当時は、やんちゃなグループがいくつかあったんですが、そんな中でも優れたチームを作ろうという目的で『新撰組』と名付け、『誠』って入れたバッヂを作って学ランにつけていました」

 同じチームには、後にプロレスラーとなる松永光弘がいた。松永は同級生で相撲部だった。「自分が頭で松永にも入ってもらいました」と明かし、その活動は「乱れた街の風紀を正すことです」といたずらっぽく笑いながら打ち明けてくれたが、聞いた内容は現代のコンプライアンスに照らし合わせると危険水域を軽く突破していると思われるので、公表は自粛する。ただ、こうした「課外活動」が原因で高校時代はインターハイ優勝など抜群の成績を収めていたにもかかわらず顧問の先生から「何回も部活やめろ」と言われたということを付記しておく。

 チーム「新撰組」を結成した3年に新たな挑戦をする。それが空手だった。

 「高校があった地下鉄の次の駅『川名駅』に極真空手の道場があったんです。そこに同級生が入門したんですが、ボコボコにやられたって聞いたので『俺が行ってやる』って入りました。最初の稽古で茶帯をローキックで倒しましたが黒帯は半端なかったです。部活が木曜日は休みだったので、顧問の先生には内緒で木曜日だけ通いました」

 この空手を始めたことがプロレスラーへの出発点となった。中京大への進学後も空手を続け、そこで豊田市内に本部があった空手道場「誠心会館」の青柳政司館長と出会ったのだ。

 「空手は大学時代、豊田市内の寸止め空手の道場に1年間ぐらい通っていました。ただフルコンタクトをやりたかったので時代塾という格闘技塾に入ったんです。そこは空手連盟に入っていなかったので大会に出るときは誠心会館の枠で出ていました。青柳館長をはじめ誠心会館の指導員も自分たちのところに来て技術交流みたいな形で練習して、自分たちも誠心会館で練習したときもありました。そこで青柳館長と出会ったんです」

 この時の齋藤は予想もしなかっただろう。この大学時代で青柳館長と出会ったことがプロレスラーになるきっかけになるとは…。そして90年。ついに齋藤はプロレスデビューを果たす。(敬称略。続く)

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