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【齋藤彰俊ヒストリー《5》】ジプシー・ジョーから授かった「シュート」の真意…11・17愛知県体育館「引退試合」

スポーツ報知 / 2024年11月5日 12時0分

齋藤彰俊(右。写真提供・プロレスリング・ノア)

 プロレスリング・ノアの「TEAM NOAH」齋藤彰俊が17日に愛知・名古屋市のドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)で引退する。空手家からプロレスへ転身しデビューは1990年12月20日、愛知・半田市民ホールでの「パイオニア戦志」。以後、新日本プロレスで「平成維震軍」などで活躍し一気にトップ戦線へ食い込むも退団。2年間、リングから離れ2000年からノアに参戦し09年6月13日には、リング上で急逝した三沢光晴さん(享年46)の最後の対戦相手となる過酷な運命も背負った。当時は、一部の心ない人々から激しい誹謗(ひぼう)中傷を受けたが逃げることなくリングに立ち続けファンから絶大な支持を獲得した。今年7月13日の日本武道館大会で潮崎豪に敗れ引退を決断した。スポーツ報知では、波乱万丈だった34年あまりのプロレス人生を「齋藤彰俊ヒストリー」と題し引退試合の17日まで連載。第5回は「ジプシー・ジョーから授かった『シュート』の真意」

(福留 崇広)

 所属するはずだった「パイオニア戦志」がデビュー直後に解散。大学を卒業し就職した勤務先も退社しアルバイトで生活費を稼いだ齋藤。先が見えない生活の中での光が新団体「世界格闘技連合W★ING」からのオファーだった。

 「団体名も世界格闘技連合ですし、旗揚げ前に(神奈川県の)鎌倉で2日間合宿を行ったんです。そこに柔道家の徳田光輝選手、サブミッションアーツの木村浩一郎選手もいて、他の選手もアマレス出身者が多かったんです。練習の中身もそれぞれの格闘技の技術交流でした。なので異種格闘技戦を中心にやっていく団体だと思いました。しかも社長が超大手の飲料メーカーがスポンサーになって(ボクシング世界ヘビー級王者の)マイク・タイソンを呼ぶとか言って、自分は『おぉ~すげぇ団体になるんだなぁ』と思いましたよ」

 齋藤、徳田、木村は「格闘三兄弟」と名付けられた。さらに高校時代の同級生だった松永光弘も参戦していた。旗揚げ戦は91年8月7日、後楽園ホール。超満員の観衆を集めたメインイベントの6人タッグで「格闘三兄弟」が対戦したのは、ミスターポーゴ、TNT、スティーブ・コリンズの「純プロレス」トリオだった。齋藤は純白の空手道着に身を包んでリングに上がった。

 「格闘技スタイルだと思って、いざ後楽園ホールで旗揚げ戦を迎えたら対戦相手がポーゴさん、TNT、コリンズですよ(苦笑)。ポーゴさんに椅子で殴られるわ、ブーツで殴られるわ…異種格闘技でもなんでもなくとんでもない世界でした」

 椅子で殴打され、場外では大乱闘。キックと関節技を軸にリング内ですべて決着が付くUWFの格闘技スタイルとは正反対の反則でも何でもありの世界。「マイク・タイソンを呼ぶ」と掲げた社長の方針とは、違う現実は、当時のフロント内でスタイルを巡る方針の対立が原因だった。社長は格闘技路線を望んだが、現場を統括するスタッフは、当時、デスマッチ路線でカリスマ的な人気を獲得していた大仁田厚の「FMW」と同じスタイルを推進することを主張した。このカオスが旗揚げ戦のリングでそのまま現れたのだ。

 ただ、当時のファンの最大の注目は、FMWで大仁田の宿敵として人気絶頂だったポーゴの新団体移籍だった。さらにFMWでポーゴのマネージャーだったプエルトリコ人のビクター・キニョネスも「W★ING」に参加。ファンの期待は、社長が推進したかった格闘技路線よりもポーゴ、キニョネスの「プエルトリコ軍団」に集まった。自然にリング上は格闘技色は薄れポーゴ、キニョネスが支配していく。こうした中で齋藤も練習でメキシコの「ルチャ・リブレ」スタイルの指導を受けるなど、空手を軸にしたスタイルから本格的なプロレスを学んでいくことになる。その中で今でも忘れられないレスラーと出会う。ジプシー・ジョーだった。

 「当時、ジプシー・ジョーがW★INGに参戦していたんです。当時、プロレス界で『シュート』という言葉がはやり始めた時期で自分たちが試合前の練習の時にそういう話していたことがありました。その言葉を聞いたジプシー・ジョーが『お前らシュートなんて言葉をプロレスの中で言うな。プロレスの世界で意味するシュートとは殺し合いだ』と言われたんです」

 そして、ジプシー・ジョーは、ある行動に出た。

 「そのままリング上で自分たちに相手の目を抜くやり方を教えたんです。それは、まさにシュートでした。そして『お前らもプロレスラーならシュートなんて言葉を気安く言うもんじゃない。それなりの言葉を発する時には、その覚悟を持て』とジプシー・ジョーに教えられました。この衝撃はいまだに自分の中に残っています。プロレスは怖いんです。プロレスラーとしてリングに立つには、その覚悟がいることをジプシー・ジョーから教えられました」

 ジプシー・ジョーから授かった「シュート」の真意。プロレスの奥深さを齋藤は知った。

 「当時の自分のスタイルは異種格闘技戦の延長でした。ジプシー・ジョーの言葉、さらにはキニョネスからは『お前をスターにしてやるから。プエルトリコに来ないか?』とも誘われました。そんな刺激を受け、さらに本物のプロレスラーになりたいと思いました」

 ところがまたも齋藤は岐路に立たされる。フロント間の深刻な対立などが原因で「世界格闘技連合W★ING」は、旗揚げからわずか3か月で分裂したのだ。

 「自分は『格闘技中心で行く』と言われた社長についていきました。松永は『俺はデスマッチをやりたい』ともう一方の団体へ行きました」

 齋藤が新たに選んだ団体は「WMA」(世界格闘技連合)という名前だった。旗揚げの準備をしているなか、一本の電話がかかってくる。ここから運命が劇的なうねりを起こす。

(続く。敬称略)

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