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【昭和の大相撲】隆の里、91場所遅咲き「おしん横綱」へ…昭和58年年名古屋場所プレーバック

スポーツ報知 / 2025年1月1日 22時0分

昭和58年名古屋場所を制した隆の里

 2025年は令和7年だが、昭和(1926―1989年)で数えると100年になる。"昭和100年"の節目を記念して、昭和の大相撲名勝負を振り返る。

 千秋楽は、横綱を目指す大関・隆の里が、横綱・千代の富士との1敗での相星決戦に臨んだ。立ち合いで素早く左前まわしを取り、右四つがっぷりに。千代の富士の左上手投げに一度は、上手を切られるが、寄ってくるところで再びまわしを引いた。その上手で引き付けながら、つる。俵に詰まった千代の富士に、右外掛け。さらに体をあずけ、寄り倒し、2度目の優勝となった。

 前場所は13勝2敗の優勝次点で、横綱に昇進。初土俵から91場所要したのは史上2番目に遅く、30歳9か月は3番目の遅咲きだった。その耐え忍ぶ姿は、NHK連続テレビ小説になぞらえて「おしん横綱」と呼ばれるようになった。昇進伝達式で「節制に努めて努力、精進いたします」と述べたのは、糖尿病に苦しんだ経験からだった。

 稽古の合間には土俵を抜け出して、ビールを飲むほどだったという。昭和52年、幕内に定着したあたりから、アルコールを断ち、あらゆる漢方薬を試した。ちゃんこ鍋は野菜をたっぷり入れるなど栄養のバランスに気を配り、新横綱で全勝優勝、引退まで通算4度の賜杯を手にした。

 隆の里が(鳴戸)親方となり、スカウトされた西岩親方(元関脇・若の里)は「ちゃんこは、親方がメニューを365日考えていました。野菜、肉、魚をバランスよくとり、材料の切り方まで指導していた。うちの部屋からは糖尿病の力士は一人も出さない、と宣言していました」と明かした。

 ウェートトレを相撲界で率先して取り入れたのも隆の里だった。名城大重量挙げ部に通い、指導も受けた。「トレーニングの方法は、すべて師匠から教えてもらいました。亡くなる前日まで稽古を見に来ていたし、料理のメニューも考えていた。最後まで弟子のことしか考えていなかった」と西岩親方は惜しむ。横綱・稀勢の里ら7人の関取を育てた親方は59歳の若さで急逝した。(久浦 真一)

 ◆隆の里 俊英(たかのさと・としひで)本名・高谷俊英。昭和27年9月29日、青森・浪岡町(現青森市)生まれ。二子山部屋へ入門し、43年名古屋、初土俵。46年春場所で高谷から隆ノ里に改名。50年夏、新入幕。54年名古屋場所から隆の里に。57年初場所後に大関、58年名古屋場所後に第59代横綱に昇進。61年初場所限りで引退し年寄・鳴戸襲名。平成元年に二子山部屋から独立して鳴戸部屋を創設。稀勢の里(元横綱)らを育てた。優勝4回。幕内通算464勝313敗58休。現役時代は182センチ、158キロ。23年11月7日に59歳で死去。

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