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元極道ボクサー川崎タツキ 悪魔になった男の壮絶半生…前編 

スポーツ報知 / 2025年1月30日 7時0分

2人の子供にも恵まれ、幸せな日々を過ごしている川崎タツキさん(カメラ・近藤 英一)

 元暴力団構成員で薬物中毒―。そんな過去を持つ元プロボクサーの川崎タツキ(52)は、2000年にデビューするとメディアから大きな注目を集めた。テレビで特集され、半生を描いた本も出版された。スーパーウエルター級で3度タイトルに挑戦(東洋太平洋&日本1回、日本2回)したが、惜しくもベルトには手が届かなかった。それでも、ボクサーを目指したことで人生が一変したという。「後楽園ホールのヒーローたち」第17回は、川崎タツキに人生の節目を振り返ってもらった。(取材・構成・近藤英一)=敬称略

×  ×  ×  × 

 優しい目をした川崎が、当時を思い出し、ゆっくりと話し始めた。

 「今の幸せな生活があるのも、ボクサーを目指せたのも、すべてあの時があったからなんです。2人が空港にいなかったら、また組の事務所に戻って、そのまま構成員になって、クスリをやっているか、死んでいたか…。いいことは想像できない。本当に人生の分岐点でした」

 1997年10月。川崎は那覇空港から羽田行きの航空機に搭乗していた。

 「俺は何でクスリなんかに手を出してしまったんだろう。もうクスリには絶対手を出さない。俺は親分になるためにヤクザになったんだ。東京に戻ったら、真面目にヤクザをやり直そう」

 そう心に誓い、日が暮れた羽田空港に降り立った。薬物リハビリ施設「沖縄ダルク」でのプログラムを終了して1年ぶりの帰郷だった。これから電車を乗り継ぎ、都内の組事務所に行こうとした矢先、背後から名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

 「タンタン(川崎の愛称)、タンタン」

 振り返り、驚いた。誰にも知らせていないはずなのに、姉と優香(後の妻)が迎えに来ていたのだ。川崎が東京に戻ることを聞いたダルクのスタッフが、ひそかに姉に連絡を入れていたのだ。便までは分からず、2人は午前中から夜遅くの到着便までひたすら待ち続けていた。「うれしかったのと同時に、どうやってこの2人を帰そうか、そうしなければ組事務所には行けない。いい案が思い浮かばず、とりあえず、一緒に車に乗って帰ることにしたんです」。そして、車中で姉から衝撃の事実を告げられる。

 「タンタン、帰ってきてすぐにつらいことを言って悪いんだけど、お父さんが末期がんで、あと1年持たないようなの」

 中学時代、殴り合いをして警察沙汰になった回数は片手では済まない。それ以降は、言葉もかわさない関係になっていたが、突然、父への思いがこみ上げた。

 「その時初めて、もうヤクザはあきらめようと思ったんです。こんなことをしていてはダメだ。おやじを安心させなければ」

 25歳の決断だった。ひとつ、はっきりと言えることは、姉と優香が空港にいなければ、本人の言葉にもあるように、再び地獄へと足を踏み入れていただろう。

 真面目に働こうと住み込みの仕事を探し、初めはトラックでの配送の職に就いた。「初めて普通の仕事をして、給料を受け取る楽しさを感じた」という毎日。その後、同様に住み込みで働ける浅草の自動販売機を取り扱う会社に転職した。土、日の休日は地元の足立区竹の塚に戻り、友人らと食事をして交遊を深めた。そんな時、プロボクサーのカズ、コウジの有沢兄弟と出会う。川崎は中学時代に2人の父が会長を務める草加有沢ジムに1年間だけボクシングを習いに通った時期があった。そんな話をしていると、有沢兄弟から「もう一度ボクシングをやろう。一緒にがんばろう」と声をかけられた。

 が、川崎は否定的だった。「認められないし、ダメだろう」。16歳の時に彫った背中からでん部にかけての入れ墨。日本ボクシングコミッションのルールでは、入れ墨は禁止されている。「本当にやる気があるなら、(入れ墨は)手術で消せる。そういう前例もあるから」と友人に言われ、知人らが手術費をカンパしてくれた。川崎のために200人以上が、ひとり1万円ずつを出し合い、夢を後押ししてくれたのだ。全身麻酔で6時間半かけ、背中一面をレーザーで焼き、入れ墨を消していった。27歳、完全には消えないが、ファンデーションを塗り、極力目立たない状態にしてプロテストを受験した。

 2000年7月10日、後楽園ホール。デビュー戦は本多彰浩(協栄)を右フックで2度倒し初回KO勝ち。試合翌日の本紙スポーツ面には、日本スーパーフェザー級王者・コウジ有沢の5度目の防衛戦の記事の下に、川崎のデビュー戦を伝える15行程度の原稿が掲載されている。初勝利後のコメントに、それまでの人生が浮き彫りになる。

 「ボクシングができて、今は生きていることが実感できる」

 丸太のような太い腕に広い肩幅。筋骨隆々の上半身から繰り出すフックでKO勝ちを積み重ねていった。同時に、波乱万丈の過去への注目度も加速していった。デビューから7連続KO勝ち。プロ8戦目で初黒星を経験するが、そこから11連勝を記録。そして2006年1月、初のタイトル挑戦。相手は東洋太平洋&日本スーパーウエルター級王者のクレイジー・キム(ヨネクラ)。応援に駆けつけた姉と、前年11月に入籍した妻の優香には数台のテレビカメラが密着する中、開始のゴングが打ち鳴らされた。初回から積極的に打ち合うが、4回に右ストレートを浴び初ダウンを奪われる。それでも前に出て打ち合ったが、9回、再び連打を受けたところでレフェリーが試合をストップした。

 惜しくもベルトには手が届かなかったが、応援の数では明らかに川崎に分があった。沖縄で過ごした薬物リハビリ施設「沖縄ダルク」からも、はるばる応援に駆けつけてくれた。施設の仲間たちが用意してきた横断幕には“名言”が刻まれていた。

 「タツキ、〇ャブは打つな、ジャブを打て 沖縄ダルク一同」

 2度目のタイトル挑戦(2007年4月)は日本スーパーウエルター級王者・石田順裕(金沢)に挑み6回TKO負け。その1年後に石田と再戦するが、結果は同じく6回TKOで涙をのんだ。2008年9月の再起戦も負傷判定で敗れると、会長の有沢から通告された。

 「次でラストファイトにしよう。お前の体が心配だ。1日考えろ」

 川崎はその言葉を素直に受け入れた。

 「それまで辞めようなんて思ったことは一度もなかったんですが、その時、初めてうれしいという気持ちが湧いてきたんです。家族以外に自分の体を真剣に心配してくれている人がいる」

 ラストファイトは2008年12月1日。タイのペットナムエーク・シットサイトーンに3回TKO勝ちした。

 「まったく後悔はなく引退しました。こんなに輝ける人生を経験できたのはボクシングのおかげ。(ボクシングから)生きる素晴らしさを教わりましたから」

 悪魔が宿り、いつ死んでもおかしくない日々を過ごしてきた。生きる喜びを感じるまでは、長い、長い、時間を費やした。(続く)

 ◆川崎タツキ 1972年4月3日、東京・足立区生まれ。15歳と17歳の時にそれぞれ1年間ずつ少年院で生活する。24歳の時には薬物中毒で1年間、沖縄ダルクに入る。その後、本格的にプロを目指しボクシングを始め、2000年7月にプロデビュー。東洋太平洋、日本と計3度タイトルに挑戦するが、いずれもベルトに手が届かず。戦績は22勝(17KO)5敗。身長171センチでボクシングスタイルは左ファイター。家族は妻との間に1男1女。

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