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元極道ボクサー川崎タツキ 悪魔になった男の壮絶半生…後編

スポーツ報知 / 2025年1月31日 7時0分

小学生時代、野球の練習をしていたグラウンドの前でポーズを取る川崎タツキさん(カメラ・近藤 英一)

 沖縄返還、パンダ初来日、札幌五輪で笠谷幸生が日本人初の冬季五輪金メダル。そんな1972年の4月、川崎タツキは東京・足立区竹の塚で生を受けた。両親と姉、妹の5人家族。ごく普通の家族だったが、少しずつ歯車が狂いだしたのは、小学校4年の時だ。母ががんを患い2年間の闘病の末に他界すると、父との関係がギクシャクし始める。5年生の時、友達とスーパーで「どちらが高いお菓子を持ってこられるか」と万引きを競い合い、初めて補導された。「体が同級生より大きくて、力も強かった。ドラえもんでいうと、ジャイアン。リアル・ジャイアンでした」。小学校卒業の頃には、住んでいた団地内で「タンタン(川崎の愛称)は中学に行ったら手がつけられなくなるよ」と、うわさされた。

 中学に入ると素行の悪さは加速した。ささいなことで、酒に酔った父と殴り合いのケンカが始まる。初めは団地のご近所さんが止めに入り、その場を鎮めてくれていたが、あまりの頻度の多さに誰もが見て見ぬふりをし始めた。罵声が飛び始めると、隣人らは皆、扉や窓を閉め、最終的には家の電気も消すようになった。その代わりに、通報されパトカーが来るようになり、2人そろって警察署に連れて行かれた。「またお前たちか」と絞られ、2人で帰宅するのだが、その途中、再び「取っ組み合いになって殴り合った」ほど、父との関係は悪化していた。

 中学3年になると、その名は足立区だけにとどまらず、千葉、埼玉、茨城、栃木と関東圏にまで知れ渡った。そして、友人から声をかけられた。「タンタンのこと、ヤクザが呼んでいるよ」。名指しでの呼び出しにも、15歳は恐れるどころか金属バットを持ち、ひとり乗り込んでいった。

 「マンションの2階に事務所があったんです。さすがに金属バットを持って部屋に入るのはまずいので、近くに隠してから入ったんですが、その姿が防犯カメラに映っていたのか、入って行ったら『来たな、火の玉少年。いま持っていた金属バット持ってこいよ』とか言われて、歓迎されたんです」

 トランプをして遊んだだけだが「すごく楽しかった」と居心地の良さを感じ、「もうそこに住み着いて、そこから学校に通いました」と、中学3年にして組事務所から通学した。それからは、連絡手段としてポケベルを持たされた。当時、サッカー部に所属していた川崎が、練習試合に行くため顧問の先生が運転する車に乗っていた時のことだ。ポケベルが鳴ると、運転席に向かい、こう告げたそうだ。「先生、止まって。ベルが鳴ったから公衆電話のところで止まって。事務所に電話するから」

 修学旅行に行く3日前に傷害事件で逮捕され、群馬の赤城少年院で1年を過ごした。仮退院して組に戻ると、背中一面に入れ墨を入れた。17歳の時、先輩から預かった拳銃を自宅の机の裏に隠しているのが見つかり、拳銃不法所持で逮捕され、小田原少年院に送られ、再び1年を過ごす。川崎はこの時、小田原少年院で持久走の新記録を作る。後日談だが、プロボクサーになった川崎が、元祖・入れ墨ボクサーの大嶋宏成から質問を受けた。「川崎さん、小田原で持久走の記録作りましたか?」と聞かれ、「作ったよ」と答える。大嶋は「俺がどうしても抜けなかった記録だったんですよ」と2人で笑い合ったそうだ。

 小田原少年院仮退院から3年、川崎の体に悪魔が宿る。

 知人から「シャブを買えないか」と、相談を受ける。あてもない川崎だったが「知らないと言うのも格好悪いので『どこか聞いてみましょうか』と見栄もあって、安請け合いしてしまったんです」。数人に聞くと、すぐに手に入った。知人に渡すのとは別に、興味本位で自らも試してみた。21歳の時だった。

 「頭がさえるというか、全く眠くならないんです。クスリがすごく効いた状態です。それと同時に、俺は何でもできるという気持ちになるんです。夜からやって、気付いたらもう朝になっていて。それから、たいして面白くないからやめようと思うんですが、夜になるとまた欲しくなる。その連続で結局、毎日、3年間続けてしまったんです。そのせいで、これです」と、川崎は口を開き、入れ歯を一瞬取って見せた。覚醒剤の影響で上の歯はすべて溶けてなくなり、下の歯は4本だけが残っていると、明かしてくれた。

 クスリでの逮捕歴はないが、ありとあらゆるものに手を出した。結果、幻覚、妄想。川崎に物事をまともに考える力はなくなり、いつの間にか、悪魔が乗り移っていた。

 「ある日、突然、自分は人工衛星で24時間監視され、撮影されていると思い込んだんです。自分はサタン、悪魔だと。俺が世界の破滅を狙っているので、それを止めようと国が俺を監視、撮影している」

 「覚醒剤は国が支給しているから俺は捕まらない」

 「天から女性用のブラジャーを着けて多摩川に飛び込めと指令が出ている」と、真冬の川に飛び込み、向こう岸まで泳いだ。

 限界がきた。「もう人工衛星での監視をやめてくれ。これで終わりにしよう」と、姉の自宅で自殺未遂する。姉の発見が早く、すぐに病院に行ったことで命に別状はなかったが、その場に姉がいなかったら、どうなっていたかは分からない。2か月間の入院後、沖縄の薬物リハビリ施設に入り、体にすみ着いた悪魔とようやく決別することができた。

 沖縄から東京に戻り、羽田空港に姉と後の妻・優香が迎えに来ていなければ、今、生きていたかの保証はない。覚醒剤依存の再犯率は高い数字を示している。それを承知の上で、川崎は言った。「クスリは絶対にやりません。家族を悲しませるようなことは絶対にしない。こんなに幸せになれたのも優香ちゃん(妻)のおかげ。毎日、感謝の言葉を言っているし、この生活を自分から壊すことは絶対にしない」と誓い、クスリと絶縁して28年が経過した。

 現在は障害者施設の支援スタッフとして生計を立て、少年院、児童養護施設などにも積極的に足を運び、講演活動を行っている。「昔は違う意味でよくお世話になった」という警察から、薬物中毒に関する講演を依頼され、悪魔になった恐ろしい体験を伝えている。

 「ヤクザになったことはいけないことですが、後悔はしていません。でも、反省はしています。すごく反省しています」

 親分を目指すために暴力団構成員となり、薬物中毒になった。それでも、悪魔とは決別した。そしてプロボクサーを目指し、本当の仲間ができると、社会とつながることができた。妻を持ち2人の子供にも恵まれた。

 川崎タツキ、52歳。日日是好日と、生きている。(近藤 英一)=敬称略、おわり

 ◆川崎タツキ 1972年4月3日、東京・足立区生まれ。15歳と17歳の時にそれぞれ1年間ずつ少年院で生活する。24歳の時には薬物中毒で1年間、沖縄ダルクに入る。その後、本格的にプロを目指しボクシングを始め、2000年7月にプロデビュー。東洋太平洋、日本と計3度タイトルに挑戦するが、いずれもベルトに手が届かず。戦績は22勝(17KO)5敗。身長171センチでボクシングスタイルは左ファイター。家族は妻との間に1男1女。

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