1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. スポーツ
  4. 野球

平松政次さん「怒」 「いやあ…悔しかったねえ」ドラフト指名反故にされ、今に見ておれ川上巨人…巨人が恐れた男たち

スポーツ報知 / 2025年1月28日 10時10分

67年、入団発表で中部オーナー(左)、三原監督(右)と握手する平松

 V9を筆頭とする巨人の栄光時代は、強大なライバルの存在なくしては語れない。スポーツ報知では「巨人が恐れた男たち」と題し、熾烈(しれつ)な戦いを繰り広げてきた名選手のインタビューを毎月掲載する。第1回は元大洋の平松政次さん(77)。代名詞の「カミソリシュート」を武器に巨人戦歴代2位の51勝を挙げ、あの長嶋茂雄を最も苦しめた投手の一人だ。レジェンド右腕が、野球人生の「喜怒哀楽」を語った。(取材・構成=太田 倫、湯浅 佳典)

**********

 巨人戦で通算51勝。いつしか「巨人キラー」と呼ばれた。エネルギーの源は、ドラフトの悔しさだった。

 プロへ入るなら巨人。その夢をずっと追いかけていた。1965年、岡山東商のエースとしてセンバツで優勝した。その年は巨人からの誘いはなく、甲府商の堀内恒夫が1位指名。私は中日の4位指名を受けたが、巨人のユニホームへの思いは捨てがたく、断って社会人の日本石油へと進んだ。

 日石では一転、毎日のように巨人のスカウトから会社に電話がかかってきた。「2回目のドラフトでは1位で指名するから、OKを出してほしい」。当時は今とは違い、2年待つ必要はなかった。都市対抗で優勝するという新しい目標もできていたから迷いはしたが、熱に負けた。ここでOKを出せば間違いなく巨人に入れる―。そう思って「お願いします」と返事をした。

 66年のドラフトは2回に分かれていて、私は2次ドラフトの対象だった【注2】。運命の11月7日。日石のグラウンドで練習しながら、指名を待った。「巨人の1位ともなると、記者が50人、いや100人は来るんじゃ…」などと想像していた。ところが誰も来ない。ボールを片付けていると旧知の記者が1人だけ現れた。巨人の1位は立大の捕手・槌田誠さん【注3】。私は大洋の2位と知らされた。

 いやあ…悔しかったねえ…。

 大人の約束を破られ、夢がガラガラッと崩れた。また指名を待つ道もあったが、そうはしなかった。親兄弟や、高校の大先輩で大洋のエースだった秋山登さんらと話す中で、「請われて行くのも男」との言葉に、心を動かされた。

 当時の巨人の監督は川上哲治さん。今に見ておれ、と誓った。「平松を獲っておけばこんなに苦しまなくてよかった」と思わせてやる…。

 大洋で200勝したのだから、巨人だったら250勝はしていたはずだ、という人もいる。でも、ドラフトの悔しさがあったからこその200勝なんだ。夢心地で巨人に入って、雲の上にいるようなフワフワした気持ちで投げていたら、こんなに勝てなかっただろう。

 【注2】66年9月の1次ドラフトは国体不出場の高校・大学・社会人選手が対象。11月は国体出場の高校・大学に加え、前年ドラフトの交渉権が消滅した社会人の一部選手が対象だった。

 【注3】ドラフト当時は「誠三」。

 ◆平松 政次(ひらまつ・まさじ)1947年9月19日、岡山県生まれ。77歳。岡山東商時代は65年のセンバツで4戦連続完封をマークし優勝。日本石油(現ENEOS)を経て、66年ドラフト2位で大洋(現DeNA)入団。70年に最多勝と沢村賞を受賞。71年は2年連続最多勝を獲得した。83年の200勝達成時の相手は巨人。翌84年限りで引退した。通算201勝196敗16セーブ、防御率3・31。引退後はフジテレビ系「プロ野球ニュース」の解説などで活躍。17年に野球殿堂入り。右投右打。  

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください