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監督・吉田義男の流儀 ミスした選手を責めない 勝てば選手の手柄、負ければ監督の責任

スポーツ報知 / 2025年2月5日 5時5分

華麗な守備で「牛若丸」と呼ばれた吉田義男さん

 阪神は4日、監督として1985年に球団史上初の日本一に導いた吉田義男さんが3日午前5時16分、脳梗塞(こうそく)のため亡くなったと発表した。91歳だった。現役時代も阪神ひと筋で17年プレーし、華麗な守備で「牛若丸」と呼ばれた。1年目から遊撃のポジションを不動のものとし、2年目に盗塁王を獲得。指揮官としては計8シーズン率いた。背番号23は永久欠番。京都弁で親しまれた「よっさん」が天国に旅立った。

 守備には絶対の自信を持っていた。しぶとい打撃も相手にとっては脅威だったが「守備で道を究めたという自負はあります」と誇った。日米野球の際にはメジャーの選手、関係者が守備を称賛。1955年にヤンキースが来日した際には、唯一のワールドシリーズ5連覇指揮官のケーシー・ステンデル監督が絶賛した。小柄な体からは想像もつかない大きな存在感だった。

 ゴルフを愛し、オフには多い時で週1~2回のラウンドをこなした。欧米のコースを回ったこともあった。もう一つの趣味がサウナ。休憩を含めて約2時間かけて心身を落ち着け、考えを整理する時間に充てていた。

 名選手でありながら名監督でもある。選手への信頼を重視。ミスした選手も決して責めず、勝てば選手の手柄、負ければ監督の責任。のびのび野球で85年の日本一を呼び込んだ。96年オフ、西武からFA宣言をした清原と初交渉した際には「縦じまのユニホームを横じまに変えるくらいの気持ちがある」と歴史に残る口説き文句を残した。

 しかし、大きな心残りもあった。76年1月、長年チームを支えた江夏豊をトレードで南海(現ソフトバンク)に放出。本人に移籍を通告したのはフロントだった。球団の意向ではあったが「監督として自分で伝えるべきだった」と長年後悔していた。頑固な性格であると同時に選手ファーストの思いやり。監督退任後も多くの人々に親しまれた。

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