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母の言葉といじめ 被爆者であることを隠してきた女性が自らの体験を伝える語り部になった訳とは

HTB北海道ニュース / 2024年8月7日 11時30分

(c)HTB

札幌に被爆者であることを幼い時から伏せ、70歳を超えてから自身の体験を伝える語り部になった女性がいます。ある出来事をきっかけに活動をはじめた、その思いを聞きました。

広島に原子力爆弾が投下されて、8月6日で79年となりました。投下の日から、その年の終わりまでにおよそ14万人が死亡したと言われています。鎮魂の祈りは北海道でも。

札幌の日登寺では毎年、犠牲者を悼む祈りが捧げられています。金子廣子さん(84)は5歳の時に広島で被爆しました。

■金子さん「あまり上手に語り部できないけれど、よろしくお願いします」

金子さんは、北海道被爆者協会が運営するノーモア・ヒバクシャ会館を拠点に、語り部活動を続けています。この日は20代の若者を中心に自身の体験を伝えました。

■金子さん「広島市の宇品という所、爆心地から3キロの所で被爆しました」

金子さんは1940年生まれで兄が1人、姉が4人。6人兄弟の末っ子です。家族が揃って写っている写真は残っていません。

■金子さん「当日は朝、2番目の姉さんが起こしに来ました」「父さんが起きてきて縁側に立って『きょうはすごい暑いなと~』と言った時に、ドーンと(原爆が)落ちた時にガラスの破片がテーブルに落ちて(父親の)血がバーッと出た」

父親がけがをしたものの家にいた家族は命を取り留めました。3番目の姉だけが家を出て学校に向かっていました。

■金子さん「(3番目の姉は)学校に行って朝礼と言われて並んだ時にドーンと落ちたから背中をやられた。(姉が)死んで仰向けになった時にウジが湧いていたの。姉さんは私がいたとか誰が来たかなんて朦朧としてわからない。本人だって何が何だか分からないで死んだと思う。(けがをした人は)公民館みたいな所に並ばされていたけれど、みんな『水』とか言っていたけれど、兵隊さんもあまりいないから、お水なんて持って来てくれる人なんていなかったから、『ワーッ』とわめいて泣いていたのはなんとなく覚えている。

みんなむしろに寝かされていた」

学校のグラウンドで被爆した3番目の姉はおよそ1週間後に息を引き取りました。被爆から1年後、生活苦のため家族は両親の故郷である秋田県へ引っ越しました。

■金子さん「秋田に転向したときに『どこから転校してきました』と先生が言いますよね。そうしたら次の日から『お前、寄ってくるな』と言われた。なんで『寄ってくるな』って言うのか自分は分からない。健康だから。『被爆者だからうつる』だとか、親御さんもおそらく『そばに寄るんじゃないよ』って言ったのだと思う」

金子さんが語るのは原爆の被害そのものよりも、その後に体験したつらい思いが中心です。秋田に引っ越して数年で父親は病死しました。原爆による後遺症かどうかはわかっていません。母は家族を支えるため住み込みで働き詰めとなります。金子さんの面倒を親族や近所にお願いしなければならなくなりました。

■金子さん「(母親に)『あんたさえいなきゃね』って言われたの。私は6年生で、言われてもなんの言葉も返すことができなかった」

小学校でのいじめ。母の言葉。金子さんは、幼いうちから被爆者であることを決して明かさないと決めました。しかし、その思いが揺さぶられます。

2011年3月の東日本大震災で、福島第一原発から大量の放射性物質が放出されました。金子さんが71歳の時でした。

■金子さん「東北の地震が起きた時に、東北のお母さん方が、子どもが放射能を吸ったことで、大人になって病気になるから一生放射能を多く吸った子は国で面倒を見てくれって訴えたの。その時初めて自分が実体験しているなという気持ちを持った」

廣子さんは、甲状腺の異常やガンで胆のうを摘出するなど多くの病と闘っています。放射線を浴びてしまうと、どのように身体に影響があるのか自分の体験を伝えるべきだと考えるようになりました。

■金子さん「原爆の話を全然できなかったら、自分史を語れないかいと言われた。

自分史だったら自分のことだから語れるかなと思って語って、10年経つんです」

■語り部会に参加した20代女性は「伝えてくれるということは、被爆者としてもこちら側(聞き手)としてもありがたいし、自分も廣子さんみたいな人たちに何ができるのかなと(考えると)、やっぱり声を上げていくことだと思いました」

北海道の被爆者らが平和を訴える拠点としてきた道内唯一の原爆資料館「ノーモア・ヒバクシャ会館」について、運営する北海道被爆者協会は今年度末で解散することを決めました。会員となっている被爆者のほとんどが80歳以上となり、活動が難しくなりました。

■北海道被爆者協会河野怜子さん「(被爆者の中には)『俺のような人間を出すのはもう二度としないでくれ』って叫ぶように逝った方もいらっしゃるんです。(解散は)やっぱりなんとも言えない気持ちです」

■北海道被爆者協会中村政子さん「寂しいかなっていう感じはしますね。なんか拠り所は・・・。どこかで皆と繋がっていなきゃいけないし繋がっていたいです」

今後、建物や展示物は北星学園に譲渡され、活動は継続されます。金子さんはいま戦争の体験を語る重要性が増していると感じています。

■金子さん「二度と戦争はあってはいけないということを子どもたちに伝えたい。私はもうあの世に逝く年齢だけれど、小学校の人たちはこれからだから。いま日本は防衛費にお金をかけていてすごいじゃないですか。戦争が起こるのではないかというのが気になってしまう。語りは依頼が来たら続けます。元気なうちは続けます」

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