1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

戦後80年 元住民の記憶の色でよみがえる カメラマンが残した被爆前の広島 AI技術で写真をカラー化 【NEVER AGAIN・記憶の解凍プロジェクト】

広島テレビ ニュース / 2025年2月8日 8時0分

広島テレビ放送

広島テレビの被爆80年に向けた取り組み『ネバーアゲイン』のひとつが、被爆前後の白黒写真を、AI技術や戦争体験者との対話などをもとにカラー化する「記憶の解凍」プロジェクトです。広島テレビではこの取り組みに賛同して、被爆者の「思い・記憶」を次世代へとつなぎます。

被爆前の繁華街の写真をカラー化へ

広島テレビ放送

今回紹介するのは、広島テレビの庭田杏珠記者が、写真のカラー化の取り組みを始めるきっかけになった街の姿を映した写真です。

1938年ごろに撮影

現在、平和公園となっている場所は被爆前、4400人が暮らした中島地区という繁華街でした。80年前まで人々の暮らしがここにあったことを教えてくれます。この写真を撮影したカメラマンの孫や、中島地区に生まれ育った元住民、広島電鉄への取材などを通して、カラー化に取り組みました。

広島テレビ放送

撮影したのは、カメラマンの松本若次(まつもと・わかじ)さんです。戦前の広島の町並みなどをおさめた写真、およそ1万3000点が残っています。

広島テレビ放送

松本さんの孫にあたる大内斉(おおうち・ひとし)さんと、一緒に原爆資料館に向かいました。最初に展示されているのが、松本さんが撮ったあのパノラマ写真です。

松本若次さんの孫・大内斉さん

■松本若次さんの孫・大内斉さん

「元の写真は、はがき2枚くらいの大きさの写真なんですけど、これくらい大きくしてもらうと、よりわかりますよね、町の当時の暮らしが。パノラマ写真3枚の写真をつないであるんです。(戦争で)フィルムもたぶん入手できなくなってきて、3枚に分割して撮ったんだろうと思うんですけど。」

広島テレビ放送

現在の紙屋町交差点から原爆ドームは、被爆前は猿楽町(さるがくちょう)でした。この町で松本さんは「広島写真館」を営んでいました。

■松本若次さんの孫・大内斉さん

「今よりは道が狭かったので、(広電紙屋町西の)電停のあたりになるんだろうと思います。」

広島テレビ放送

松本さん一家は、実家のある廿日市へ疎開していたため、被爆を免れました。しばらく、家族も存在を忘れていた写真が2008年に発見され、あのパノラマ写真も、いまに残されています。

■松本若次さんの孫・大内斉さん

「いっぱい(写真が)出てきたと言われて。いらないんだったら捨てますよと、いとこに言われて、捨てずに残しておいてという話をして。」

当時をさかのぼり、記憶の色を呼び起こす

広島テレビ放送

89歳の吉川正俊(きっかわ・まさとし)さんは、当時を知る戦争体験者の1人です。中島地区にあった吉川さんの家は、旅館を営んでいました。

広島テレビ放送

■吉川正俊さん

「あそこ(産業奨励館のバルコニー)は、よく上がりました。階段の手すりに乗って滑って降りていました。」

広島テレビ放送

吉川さんの生まれ育った場所へ。当時の記憶をたどります。

■吉川正俊さん

「(旅館は)結構広かったですね、走って遊んでいたから。」

広島テレビ放送

以前、カラー化した吉川さんの端午の節句の写真があります。

■吉川正俊さん

「これ刀ぬいてね、刀だけなくなってるんですよ。小さい刀だけど。悪そうな顔してるね。はっきり思い出しますね。ここへおると。」

広島テレビ放送

幸せな日常に、戦争が影を落とします。

■吉川正俊さん

「ここから道を通って、御幸橋まで歩いて、宇品まで歩いて、一列にならんで出世したわけだけど。宇品を出て四国の沖まで行ったら、沈没しているという状況が多かったから。」

中島地区にあった吉川旅館(木造3階建て)

吉川旅館は、兵士たちの人生最後の宴会場となりました。

■吉川正俊さん

「毎晩(宴会)でしたね。100人近くは(宴会を)やっていたんじゃないんかな。学校行くより以前の6時半か7時ごろにはみんな行っていたから。家の中から見ていましたね。」

赤い丸の場所から撮影

被爆前の街並みをおさめた写真と、元住民の記憶が交差します。

■広島テレビ 庭田杏珠記者

「1938年ごろなんですよ。だいたい同じ時期に撮られている。」

■吉川正俊さん

「この場所から写しているわけだよね。」

■広島テレビ 庭田杏珠記者

「今までバラバラだった点と点だったような写真が、つながったなと。」

■吉川正俊さん

「つながってきた。」

広島テレビ放送

白黒写真をAIでカラー化し、吉川さんと対話しながら「記憶の色」を重ねます。

■吉川正俊さん

「どちらかというと、こちらに近いのかもしれないね。それくらいじゃないかな。」

広島テレビ放送

■吉川正俊さん

「ああ!これ(郵便ポスト)が、終戦後にもありました。ここでオーストラリアの軍隊に、チョコレートをたくさんもらいましたから。」

■広島テレビ 庭田杏珠記者

「(ポストは)赤でした?」

■吉川正俊さん

「赤は、赤だったんじゃないかと思いますけど。」

人々の生活に欠かせなかった路面電車も…

広島テレビ放送

パノラマ写真で目にとまったのは、相生橋を走る路面電車です。

■松本若次さんの孫・大内斉さん

「(若次さんは)電車を撮っているんだろうなあと。電車が走っているというのが、撮りたかったんだろうと思うんですよ。」

■吉川正俊さん

「030?ただの30?広島駅から兵隊さんを宇品へ送るのに、あれ(路面電車)で送っていましたね。」

広島テレビ放送

松本さんがねらって撮影した30番の電車は、どんな色だったのでしょうか。広島電鉄の歴史書の編さんに携わってきた、藤田睦(ふじた・むつみ)さんを訪ねました。

広島電鉄広報・ブランド戦略室 藤田睦さん

■広島電鉄広報・ブランド戦略室 藤田睦さん

「この写真に写っている電車ですけれども、100形という開業の時からいた木造の電車ですね。どんな色だったかは、ハッキリわからないんですよ。当社は1984年、昭和59年に、開業した当時の木造の電車を復元したんですけど。」

広島テレビ放送

■広島電鉄広報・ブランド戦略室 藤田睦さん

「当時の担当者も、おそらくいろんなことを調べながら、古い方にお話を聴いたりとかして再現したと思うんですけど。」

広島テレビ放送

100形電車の復刻に携わった、元社員の森河謙二(もりかわ・けんじ)さんです。当時、どのように色を決めたのか、教えてもらいました。

広島テレビ放送

およそ40年前に復元された100形電車は、現在もイベントなどで走っています。

広島テレビ放送

■元社員・森河謙二さん

「(色の再現については)一番苦労しました。もともと今と違って、色見本とかもありませんし、当時の生存されていた運転手さん、技術の方にもお話を聞いたんですが、色は感覚的な話で、他私鉄・国鉄なんかの写真をみても、茶色系統、褐色、そんな色が基本だろうと。」

窓も木枠で、天上に近い窓は二重窓になっている。

内装もみせてもらうことに。

■元社員・森河謙二さん

「(資料も)原爆で焼けたりして残っていなかったので、(博物館)明治村とか大阪の私電博物館などで調査して。内装関係のつり革、ライト、扉とかを参考にしましたね。」

広島テレビ放送

カラー化を通して、次第に解かされていく戦争体験者の記憶。そして、カメラマンが残した被爆前の中島地区の姿。「記憶の色」を探す旅は、続きます。

よみがえる記憶の色がつなぐ平和への思い

広島テレビ放送

今回の取り組みで、写真を提供してくれた方に理由を尋ねると「AIでワンクリックでカラー化するのではなく、戦争体験者の方と何度も対話を繰り返して、記憶の色を乗せていく。また、資料も調べに行く。そのような過程を経てできているものだから、今しか伺えない記憶の色を伺っておいてほしいんです。」と話してくださいました。

広島テレビ放送

8月1日から6日まで、広島コンベンションホール1階で「記憶の解凍」展を開催します。カラー化した写真を展示、イベントなども開催します。

この記事の動画はこちらから再生できます

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください