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日本遺産(Japan Heritage)に認定!桃太郎伝説の生まれたまち おかやま

IGNITE / 2018年6月29日 23時0分

温羅を退治した吉備津彦命は神として祀られた。吉備津神社と吉備津彦神社は、命が陣を構えその墓がある吉備の中山の麓にあり、吉備津神社には、鳥が翼を広げる姿に見える屋根の巨大本殿をはじめ、約400mもある長大な回廊や650年以上前の門などの建造物が現存し、本殿の北東部の艮御崎宮(うしとらおんざきぐう)では温羅も祀られ、温羅の顔を思わせる鬼面も伝わっている。

過去に災いをもたらしていた温羅であったが、やがてこの地の吉凶を告げる使いとなった。命(みこと)がはねた温羅の首は、夜になると不気味なうなり声を上げ、命は御釜殿(おかまでん)の釜の下深くに埋めたが、それでもうなり声はおさまらなかった。

ある日、命の夢に温羅が現れ、自分の妻がこの釜を使って米を炊くようにすれば、自身が命の使いとなり釜の音で世の吉凶を占うと告げ、命は温羅の言うとおりにしたという。

「ヴォーン、ヴォーン」とまるで鬼がうなっているように聞こえる釜の音。今も御釜殿では、この音で願いが叶うかを占う「鳴釜神事(なるかましんじ)」が執り行われている。

また、この吉備津神社では、毎年1月3日、吉備津彦命が温羅との戦いに矢を置いたとされる「矢置岩」の前で空に矢を放つ「矢立(やたて)の神事」も行われ、初詣の参拝客の目を楽しませている。

2 伝説の背景にある大和に対抗する吉備の勢力 -巨大な墓-

古代吉備は、大和に匹敵する勢力を誇っていた。しばしば大和と対抗し屈服したことが『日本書紀』や『古事記』からうかがえ、吉備津彦命と温羅との戦いは、実は大和と吉備の対立を反映したものといわれる。

吉備勢力の強大さを物語るのは、かつての王たちの墓である。温羅伝説にも登場する約1800年前に築かれた楯築遺跡は、同時期の墓としては日本最大級であり、これに続く時期の鯉喰神社一帯の墓も巨大である。

また、墓での祭りに使用された円筒形の土器は、この地方で使われ始めたもので、のちに古墳で行われた祭りの道具である埴輪の原型となった。

さらに、5世紀代の造山(つくりやま)古墳・作山(つくりやま)古墳・両宮山(りょうぐうざん)古墳は、近畿の天皇陵古墳に匹敵する規模を誇り、小高い山と見間違うほどである。自由に登ることができるため、その巨大さを体感でき、あたかも祭壇のような段造りの様子や水濠で囲まれた形も見ることができる。

今も残る巨大な墓は、古くから文化が花開き、強大な勢力が存在していたこの地の繁栄を感じさせてくれる。

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