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「人」ではなく「仕事」に値段をつける(【連載8】キャリア・エントラスト理論の視点から) /川口 雅裕

INSIGHT NOW! / 2018年5月29日 16時15分


        「人」ではなく「仕事」に値段をつける(【連載8】キャリア・エントラスト理論の視点から) /川口 雅裕

川口 雅裕 / 組織人事研究者

前回に述べた通り、評価制度とは、原理的に「従業員を“金太郎飴化”“幼稚化”」してしまう仕組みであり、企業の持続的成長の阻害要因になる。だから評価制度は廃止すべきなのだが、ただなくしてしまうだけでは、従業員の処遇を決める術も失ってしまう。替わりとなる仕組みが必要だ。

●「評価制度」に代わる仕組みの考え方

市場に行けば、様々な商品があり値段がついている。客はその中から価値があると思うものを買う、売り切れで買えない場合もある。欲しい物がなければ客は買わずに帰る。

同様に、会社には様々な仕事が存在し、それに対する報酬がつけられている。従業員はその中からやりたい仕事を選んで手を挙げる。会社がその人にやって欲しいと思わなければ、他にやりたいと言っている人に頼む。だから、やりたくても仕事がない場合もある。その価値や需給によって仕事の値段が変動するから、どのような仕事をするかで、各々の報酬が決まる。従業員は、報酬とのバランスを含めてやりたい仕事がなければその会社を辞める。このように、マーケット感覚が持ち込まれているのが欧米型の仕組みだ。

日本は違う。

市場に人が並んでいる。市場側はその人数を数え、皆に商品が行き渡るよう、それぞれ何が欲しいかに関係なく、商品をみつくろって袋詰めし、おおむね均等に配ってくれる。行けば必ずもらえる。そして、どの袋の値段も同じである。

これと同じように、会社には色々な仕事があるが、それぞれが「これがやりたい」と意思表明をしなくても、各々に合っていると思われる仕事を会社(経営や管理者)が見つくろって、おおむね均等に与えてくれる。どのような仕事をしても、報酬はたいして変わらない。これが日本企業独特の姿であり、そこにマーケット感覚は存在しない。

本質的な違いは、「仕事に値段がついているか」「人に値段がついているか」にある。

欧米型は、仕事に値段がついており、どのような仕事につくかで報酬が変わる。同じ会社の同期でこれまでの実績や能力が同じであっても、そのときに営業課長と企画課長の役割に付けられている値段が違えば、両者の受け取る報酬は異なる。「同期で互いに遜色ない実績をあげてきているのに、今の役割が違うから報酬が違うのは不公平だ」とは考えない。経営が提示した職務と報酬を了承したのだからそれで何の問題もないし、逆に、価値の異なる仕事をしているのに報酬が同じという方が不公平だと考える。

日本の会社では、人に値段がついており、どんな仕事についてもその人が受け取る報酬は同じだ。誰がやるかで、その仕事の価値が変わってしまうということでもある。人に値段をつけるので、全員に適用される画一的な「評価基準」「等級基準」が欠かせない。基準に照らしながら、“横並び”を考え“公平”を期して人に値段をつけていく。人に値段がついているので、仕事の内容を記した「職務記述書」には意味がなく、その結果、実際に各々の職務は実に曖昧である。仕事の価値と違って、人の価値はそう上下するわけではないので、めったなことでは報酬は下がらず、安定している。(下げるのは法的にも難しいが。)

日本型の評価制度に代わるのは、“仕事に値段をつける”仕組みだ。私はアメリカかぶれでもないし、何でも欧米型が良いとは思っていないが、企業あるいはそこで働く人の持続的な成長、各々のポテンシャルの発揮、生産性の向上や幸せな働き方といった観点からは、明らかに欧米型が優れている。

会社は仕事の値段(職務とそれに対する報酬・処遇)を決め、応募者(やりたいと手を挙げた従業員)と個別に契約を交わし、一定期間を経た後、その契約の遂行・達成度合いなどを見て次期の契約をどうするかを話し合うという仕組みにする。“横並び”や“公平”はどうでもよく、会社と従業員の双方が合意すればそれでよい。したがって、全員に適用される画一的な「評価基準」「等級基準」は大して必要ではなく、それよりも仕事の内容を詳細に記した「職務記述書(ジョブ・ディスクリプション)」の存在がポイントとなる。発想は、外注するのと同じだ。頼みたい業務を決めて値段の交渉をし、合意すれば発注する。このときに、外注先に支払う値段を横並びで公平にしようとは、日本であっても誰も考えない。そして、結果が良ければ関係は続いていくし、駄目ならば値下げや打ち切りとなる。(解雇規制の緩和を主張しているのではない。日本の労働法制の範囲内で実行すればよい。)

●「評価制度」の弊害

人に値段をつけるという日本型の評価制度は、そこに行ったら必ず一定量を定額で分けてもらえる市場のようなものである。そういう仕組みのもとでは、もらう側にとっては「行くこと」や「存在し、見てもらうこと」がもっとも重要になる。必ずもらえるのだから、選り好みしたり好き嫌いを主張したりして、与えてくれる側の機嫌を損ねてはいけない。与えてもらえることに感謝を示し、時には与えてくれる人の無理をきいたり、我慢したりするのも大事なことだ。そうして、安定と引き換えに従順を捧げる人が増えていく。これが、日本特有の「無限定な働き方をする正社員」の姿である。選り好みも好き嫌いも言わずに与えられた職務を受け入れ、その上、職務外・時間外の業務も厭わないことを約束した従業員の姿だ。つまり日本型の評価制度は、長時間労働の常態化を含めたブラック職場を生む原因の一つとなっているのである。

行ったら必ず一定量を分けてもらえるのだから、獲得する術を磨く必要はない。よりたくさんもらおうとするより、皆とのバランスを重視し、突出せず、行儀良くしていることで得られる安定を選ぶ。つまり日本型の評価制度は、学ぶ姿勢を劣化させてしまう原因にもなっている。強みがなくても、磨き続けなくても、安定してもらえる環境に身を置けばたいていの人は学ぶことをやめてしまう。

日本の会社は、「行ったら必ず一定量を分ける」仕組みを持っている一方で、個別性には配慮しない。ちょっとだけ欲しいとか、2日に1回来るとか、家に届けて欲しいといった要望には応えようとしない。毎日来る人たちに対して、同じ量を与えることしか想定しておらず、顧客の要望に応じてカスタマイズするような姿勢は持っていない。こうなると、フルタイムの無限定正社員しか働けない。フルタイムで無限定に働く人が正社員のあるべき姿であり、「評価基準」「等級基準」とはその姿を描き出したものであり、そのような働き方ができない人は「例外扱い」となって、通常の評価の対象外である。これでは、多様性が実現できないのは当然だ。つまり、「評価制度」はダイバーシティに逆行しているし、ダイバーシティ実現への障害となっているのである。

「同一労働同一賃金」という世界の原則が実現できないのも、そうだ。同じ仕事なら、同じ給与が支払われるというのは、誰が考えても当然である。しかし、先述したように日本では「人に値段がついている」から、その人がやれば「どんな労働をしても同一賃金」になってしまう。あるいは、「同一労働なのに、誰がやるかで違う賃金」になってしまう。「仕事に値段がついている」から「同一労働同一賃金」になる。「同一労働同一賃金」は、現在のところ正規・非正規の格差解消という矮小化された議論になってしまっているが、このように本来の意味に戻れば、「人に値段がついている」以上は実現不可能なのであり、その原因は評価制度にある。

日本の評価制度は従業員に安定を提供してはいるが、以上のように多くの弊害がある。これらが絡み合って、生産性が低いという現実を生んでいる可能性もあるだろう。評価制度は、すぐにでも捨て去るべきだ。そして、人に値段をつける仕組みから、仕事に値段をつける仕組み、日本型の「ジョブ・プライス制度」への転換を進めなければならない。次回は、その中身について考えていきたい。

【つづく】

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