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ナポレオンが乗っていたのは白馬かラバか/純丘曜彰 教授博士

INSIGHT NOW! / 2016年2月2日 7時0分


        ナポレオンが乗っていたのは白馬かラバか/純丘曜彰 教授博士

純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

 ここに2つの絵がある。ナポレオンのアルプス越えだ。あなたは、どちらの絵が真相だと思うか。

 皇帝に戴冠する前の第一統領ナポレオンがアルプス越えでイタリアに奇襲をかけたのは、1800年5月20日。この勝利でスペインはフランスと同盟。そして、スペイン王への贈り物として、絵は、同年8月、ダヴィッド(1748~1825、50歳)によって描かれた。ところが、ナポレオンもこの絵を気に入り、ダヴィッドに複製を作らせる。ダヴィッドも、この絵は自信作であり、また、自分がもはや敗北した革命派ジャコバン党員ではなく、飛ぶ鳥も落とす勢いの第一統領の寵愛を受けている宮廷画家であることを示すために、原画と複製を引き渡す前に、1801年9月、ルーヴル宮で展覧会を開く。それも、慣例を破って入場料を取った。依頼者からすでに製作費を受け取っているくせに、どういうことだ、と新聞はこぞって叩いたが、ナポレオンの威光と人気によって、彼はそんな批判をものともしなかった。


 その後、原画はスペイン、マドリッド宮に掛けられ、複製は、ナポレオンの自宅、パリ郊外の聖クール城に掛けられた。ナポレオンは、さらに2枚の複製を作らせ、軍病院(アンヴァリッド、1802年版)、征服地イタリアのミラノ宮(1803年版)にも飾った。じつは、画家ダヴィッド自身も、この絵をとても気にっており、さらにもう1枚を自分のために作ってアトリエに残していた。つまり、同じ絵が全部で5枚もあるのだ。


 原画は、1812年、廃位となったスペイン王の兄ジョセフ・ボナパルトが持ち去り、米国に亡命。ニュージャージー州の屋敷に掛けられていたが、1949年、ナポレオンの最初の妻ジョセフィーヌが好んだフランス、パリ郊外のマルメゾン城に寄贈。一方、ナポレオンの自宅にあった1801年版複製は、1814年に持ち出され、ベルリン、シャルロッテンブルク宮に。軍病院の1802年版は、王政復古後、倉庫に。しかし、1830年のルイ・フィリップの七月王政で、ヴェルサイユ宮へ。ミラノ宮の1803年版は、イタリアを再征服したオーストリア、ウィーンのベルヴェデーレ宮に。アトリエ版は、ダヴィッドの娘が寄贈し、1979年からヴェルサイユ宮の二枚目として収蔵された。


 ところで、ダヴィッドの後、『アルコル橋の戦い』(1826)でナポレオンを描いたヴェルネ(1789~1863、50歳)がルイ・フィリップ王政下でフランス歴史絵画の第一人者となった。彼は、フランスアカデミー総裁として、絶世の美女と評判高い娘ルイーズ(25歳)とともにローマに赴任。ところが、そこやってきた後輩でフランス国立美術学校教授のドラロッシュ(1797~56、42歳)が、ルイーズを見初めてしまった。ドラロッシュは、ヴェルネと8つと違わない。当然、揉めに揉める。


 1839年、イタリアから帰国したヴェルネは、ドゥアルデシュの『ナポレオン物語』(1827、444ページ)に精悍なナポレオンの挿絵を大量に添えた本(799ページ)を出し、フランスにナポレオンの一大リバイバルブームを引き起こす。不人気のルイ・フィリップ王は、このブームを取り込もうと、翌40年、ナポレオンの遺体を聖ヘレナ島から掘り起こし、凱旋門を潜るパレードを繰り広げ、パリの軍病院へ改葬。そんな中、1843年、ドラロッシュは、17歳も年下のルイーズと強引に結婚。ところが、その年、アトリエ内でイジメ自殺事件が起こり、ドラロッシュは大学辞任を強いられてしまう。おまけに、新妻ルイーズも45年、31歳の若さで死去。その死の姿さえ、父ヴェルネと夫ドラロッシュがあい争って描くような状況だった。


 ドラロッシュは生活に困窮し、心底も憔悴しきっていた。そんな彼のもとに奇妙な老紳士が訪れた。オンスロウ伯(68歳)。これといった特徴もない英国貴族だが、じつは熱狂的なナポレオン・マニア。彼は、ドラロッシュが5年前に描いた絵のことをよく知っていた。それは、彼が結婚前、後に彼の義父となる先輩ヴェルネのナポレオン礼賛を皮肉った作品、『フォンテーヌブローのナポレオン』(1840)だ。1814年3月31日、退位を迫られた皇帝の姿。でっぷりと太り、頭ははげ上がり、不満と野心が心中に渦巻いている。ある意味では、それは当時のドラロッシュ自身の姿でもあった。しかし、あの作品は、グーピル商会を通じ、ナポレオン嫌いのドイツ人に売られたはず。ナポレオン・ブームのいま、彼がそんな絵を描いていたことがフランスで知れれば、いよいよ彼の立場は悪くなる。


 オンスロウ伯は、ドラロッシュをヴェルサイユ宮に連れて行く。そこには、1802年版の『聖ベルナール峠越え』の複製が掲げられていた。そして、伯は、事細かな蘊蓄とともに、ドラロッシュに、その描き直しを依頼した。仕事を失い、秘密を握られてしまっているドラロッシュは、断ることなどできない。こうして、もう一枚の『聖ベルナール峠越え』(1950)ができた。ここでは、ナポレオンは愛馬マレンゴではなく、地元農民から借りたラバに乗っており、マントを翻すどころか、しょぼくれた防寒具に身を包んで、雪と氷の細道を不安そうに進んでいる。


 この絵もまた何枚も作られ、主な1つはルーブル美術館、もう1つはリバプール・ウォーカー美術館に納められている。そして、これらの絵を根拠に、ダヴィッドの絵はプロパガンダ(宣伝)であり、実際はこんなものだった、と広く語られている。が、問題は、アルプスを知らない英国人オンスロウ伯の蘊蓄と指示がどこまで真実の歴史や地理の考証に基づくものだったか、ということだ。


 たしかに、1788-89年の冬は大雪で、春になって雪解け水で交通網が寸断され、この年にフランス革命が起きる。98-99年の冬も記録的な寒さで、翌秋にナポレオンがクーデタで政権奪取。また、ナポレオンがモスクワ遠征に失敗したように、1805年から1820年にかけても、氷河期と言えるほどの酷寒。1848年もジャガイモが疫病の中、ヨーロッパは冷夏で大変だった。しかし、逆に言うと、1799-1800年の冬は、じつはこの小氷期の中ではきわめて例外的な暖冬だったのだ。もとよりナポレオンは、コルシカ島、つまりアルプスの南側の出身で、現地の状況を適格に掴んでいた。


 かくして、この年は雪解けも早く、5月13日から先発の工兵隊を出して道の整備をさせたうえで、快晴の5月20日にナポレオン本隊が峠を越えている。このあたりの住民がラバを使っていたのは事実だが、それはもともと貧しいからであって、この後に続けて広大なロンバルディア平原を駆け抜けるつもりの巨大ナポレオン軍が敵地に入ってから大量の馬を再調達しているヒマのあろうはずもなく、むしろ彼はあえて最初から馬で強引な峠越えをして、敵の不意を突く電撃戦をしかけたのだ。実際、ヴェルネの前任の在ローマ・フランスアカデミー総裁テヴナンの『フランス軍の聖ベルナール峠越え』(1806)でも、大量の馬が描かれており、ラバなど一頭もいない。それどころか、むしろこの初夏の季節は残雪のおかげで、大砲をソリで引くことができる唯一のチャンスでもあり、ナポレオンの軍略のうまさが見て取れる。


 つまり、1800年のダヴィッドの絵に劣らず、1850年のドラロッシュの絵もまた、ナポレオン・リバイバルに湧くフランスを貶めるための大英帝国の国際的プロパガンダ。もちろんナポレオンが馬上でマントを翻していた、などということもないだろうが、5月の下旬にもなってまともな峠道が雪と氷に閉ざされてしまっているわけでもない。ナポレオンだけが、世間のこのような思い込みの間隙をついて、適格に現実の地の利、時の利を読んでいたからこそ、乾坤一擲の勝負に出ることができた。実際の現場の現実を調べてみもせず、アルプスの峠、と言っただけで、雪と氷、ラバに防寒具の絵の方が真相だろう、と簡単に思い込んでしまうヤツには、ナポレオンのような大胆な勝利を得ることはできまい。思い込みを越えられるかどうか、それが君の峠だ。


(詳細は、拙著『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』で。)


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

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