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ラモーの甥:虚人の乙武を哲学する/純丘曜彰 教授博士

INSIGHT NOW! / 2016年3月28日 6時0分


        ラモーの甥:虚人の乙武を哲学する/純丘曜彰 教授博士

純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

 革命に先立つフランス18世紀、作曲家ラモーの甥が各地のサロンで話題になっていた。やたら大きな顔で、世間のモラルを偽善と嘲り、人の悪態をつく。しかし、彼自身は有名人の親族であるというだけで、何者にもなれない、なろうとすらしない小人物。『百科全書』を編纂した当代一の啓蒙知識人ディドロもまた、その時代を象徴するかのような、その人物像に関心を持ち、実話とも虚構とも付かぬ彼との対話篇を書いたが、生々しい世評を含むせいか、生前に公表することはなく、没後ようやくゲーテのドイツ語訳で知られるようになった。

 人間、手足が無くて、カネだけあったらどうなるか。そんな思考実験のような話を実例が実証してしまうと、人間というもの本性の浅ましさに、なんとも恐ろしくなる。結局のところ、性欲と名誉欲の、他者承認欲求の化け物。ニーチェの言う、弱者支配のルサンチマン(怨嗟)。だが、どこへ行っても、だれと親しくなっても、彼には居場所が無く、心が満たされることはあるまい。それは、彼がなにもしていないから。それで、内面が空虚で真っ暗だから。自分を愛する力、などと、ことさら強調したがるのは、本当は人生に自暴自棄になっていて、まさに自分自身が自分自身を最も嫌っているから。


 かの有名な乙武様である、というだけで、笑えるほどの大金が転がり込む。しかし、乙武である、からといって、本当は、なにかができるわけではない。そもそも、彼が四肢欠損でなかったなら、大学を卒業していきなり一流誌「NUMBER」の記名ライターになれただろうか、難関の採用試験を受けずに小学校教師になれただろうか。初めての小説がすぐに映画化され、演技の勉強もしたことの無いやつが主役で主演などということがありえただろうか。自称作家だそうだが、文章も講演も、発言者が乙武であるということを抜きにしたら中身は凡庸、というより、むしろしばしば反社会的。つまり、見世物の道化、時代のトリックスターとして、乙武である、ということがすべて。こういう世間の側の茶番、彼を利用しようとする連中の露骨な逆差別に本人自身が気づいていないわけがあるまい。


 手足があるとか無いとかということより、本人が本当は何もできない、何の才能も無い、ということが問題だ。オウムの麻原は言うまでもなく、女子学生のHレコーディングが生きがいの岡田某、カジノで百億円以上を摩った製紙会社の御曹司の井川某なども同類。ベッキーも、ハーフである、というだけで、歌も、ドラマも、お笑いも、もともと何の才能も無い。ショーンKも、ホリエモンも、でかい商売を詐称していたただけで、実態は空っぽ。自分のウソは本人がいちばんよく知っている。本当の意味で人に愛される、自分自身を愛する理由が無い。だから、他人の愛の亡者になる。しかし、本人が空っぽでは、どこまで欲を追っても、限りがあるまい。


 今の時代、なんだか知らないが有名人である、そんな有名人の息子や娘である、金持ちの御曹司御令嬢である、というだけで、たしかに世の中を渡って行けてしまう。それどころか、さらに大金が転がり込む。それで素人まで、とりあえず有名になれば勝ちとばかりに、ろくに芸の無い、ただの人体実験みたいな笑えない笑いで画面に出しゃばる、かと思えば、ヘソ出しの変なニセ制服を着て水商売まがいのアイドル集団に入ったり、グラビアモデルとか言って修正だらけのエロ写真集を出したり。美人であるだけ、バイリンガルや有名大学卒であるだけで、何の現場経験も取材実績も無い小娘どもが報道番組や情報番組のコメンテーターだとか、キャスターだとか。果ては、前科者であることを逆手に、本を出して一稼ぎを企むやつまで出てくる。


 だが、アリストテレスが言うように、人間は、その人が何をしたか、でこそ、定義される。料理を極めた人は料理人であり、消防に努める人は消防士。家庭を愛し家族を慈しむ人は主婦、そして、子供たちを教え導く人が教師だ。人間は、なにか社会に貢献することでのみ、みずからもまた社会的な存在となることができる。ただ、である、だけでは、いくらカネが手に入ったとしても、何もしていない以上、社会のどこにも居場所は無い。だから、どこに旅しても、だれと話しても、その相手と、ともに生きることができない。すべて、その場かぎり、その時かぎり。せいぜい、頭の弱い連中、心の虚しい連中をかき集めて洗脳し、自分に奉仕させるカルト集団をなすことでしか、他人との関係を築くことができない。


 手足が無いから、才能が無いから、学歴が無いから、縁故が無いから、カネが無いから、自分自身が生きるのでせいいっぱいで、人のことなど、ほかに何もできない、仕方ない、と思い込んでいるのは、本人自身だけ。おまけに、自分から何もしないくせに、それどころか、平気で周囲を騙し裏切るくせに、他人の愛だけ希求する。そんなやつ、だれにも本当の意味で愛されるわけがない。愛する理由が無い。もしたとえ無償の愛を得たとしても、本人が空虚である限り、その愛も、その心を満たすことはできまい。君が社会に対して、相手に対して、何をしてあげることができるのか。優しい言葉をかけること、ただ黙ってじっと相手の話を聞いてあげること。どんなに遠く離れていても、どんなに長く会わないままでも、お互いがお互いを信じ、思いやり、その信頼を篤く守ること。何もできない、などということがあるものか。


 夫である、妻である、親である、上司である、教師である、等々。だが、人間は、肩書として、ただそれであるだけであってはならない。相手の期待と信頼に応えて、みずから相手の相手、良き夫、良き妻、良き親、良き上司、良き教師、良き友人、良き隣人、そして、良き職業人に、なる、せめて、なろうと努力する、のでなければいけない。その努力無しには、この社会の中で、何者にもなれないまま、人に愛を求めるだけの我欲の化け物になってしまう。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

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