ワトソン君が変える医療の未来/竹林 篤実
INSIGHT NOW! / 2016年5月16日 7時0分
竹林 篤実 / コミュニケーション研究所
ワトソン君は、どう進化したのか
1997年、IBMはスーパーコンピュータ『ディープ・ブルー』を開発し、当時のチェス世界チャンピオン、カスパロフ氏を破った。『ワトソン』は、ディープ・ブルーに続くIBMのコンピュータ・プロジェクトである。その当初の目的はクイズ番組に出場して勝つことだった。
そのために、ワトソン君は、本や百科事典など2億ページ分のテキストデータをスキャンして取り込んだ。これは、AI領域で最近注目されているディープ・ラーニングや機械学習とは、若干異なるアプローチである。とはいえ、自然言語を理解・学習する能力に秀でており、その結果がクイズ番組での勝利につながった。
要するにクイズで出題される問題を理解し、自分(という表現は少し妙かもしれないが)の中にあるデータベースを参照し、クイズの答えを作り出すことに見事に成功したのだ。これがどれだけ優れた技術であるかは、2億ページ分のデータを自分の中に記憶し、必要に応じて瞬時に引き出すことのできる人間がいないことを思えば、容易に理解できるだろう。ワトソン君は、その後も進化を続け、2015年には東京大学医科学研究所でがん解明に挑むことになった。
がん治療の実態、あるいは医学の限界
以前の記事にも書いたが、仮にあなたが大腸がんにかかり、手術をうけることになったとしよう。大腸がんの手術には、いくつかの術式がある。では、あなたが受ける術式は、どのようにして決まるだろうか。
答えは、手術を受ける病院が所属する大学系列が採用している術式による、である。今のところは残念ながら、その術式があなたの症例に最適かどうかはあまり考慮されない。というか現実的には、考慮できないというべきかもしれない。
なぜなら、オペを執刀するドクターは基本的に、自分が研修医の時代に習った術式で手術することになるからだ。勉強熱心なドクターなら、他の術式についても研究している可能性はある。けれども、それを初めてやるとなるとリスクを覚悟しなければならない。寝食を忘れるほど日々の診察に勤しんでいる多くの勤務医の先生は、勉強したくともそんな時間がないケースも多いだろう。その意味で、東大医学研究科の試みは画期的といえる。
ワトソン君は臨床現場でどのように貢献するのか
ワトソン君の役割は、医療関連の論文や薬の効能など膨大な文書データを読み込んで理解し、医師の求めに応じて最適な治療法をアドバイスすることにある。例えば、がん関連の論文は、1年間に世界中で20万本程が発表されているという。そのすべてに一人のドクターが目を通すことは、不可能である。
ところが、ワトソン君なら、そんな人間離れした作業をこなすことができる。そして、医師が伝える症状に対して、最適な治療法を見つけ出すことが可能だ。
ただし、その際には一つ大きな問題がある。仮に発表される論文が20万本あったとして、そのすべてが正しいと言い切れるかどうか。STAP細胞問題が明らかにしたのは、サイエンスの先端分野でも研究手法や解釈に人為的な作為が入る危険性のあることだろう。ワトソン君を信頼するためには、ワトソン君に読ませる論文の質を担保しなければならない。
医療情報の切り札となる『コクラン・ライブラリ』
コクラン共同計画と呼ばれる、治療と予防に関する医療情報を定期的に吟味して、人々に伝える動きがある。ここで行われているのがシステマティック・レビューである。
世の中には、ありあまるほどの治療法や健康法が流布されている。「これでがんが消えた」とか「これを飲むだけで歩けるようになった」といった話が、テレビなどで伝えられることもよくある。深く考えずに聞いていると「それは、すごい!じゃ私も」となってしまうのだが、そこでちょっと待ったをかけるのがエビデンス、すなわち科学的根拠である。ある治療法や薬に画期的な効果があったいわれても、まずは「それって本当?」と疑ってみるべきだ。
医学的には、ランダム化比較試験を行っているかどうかが決定的に重要である。これはデータのバイアスを軽減するために、被験者をランダムに処置群(治験薬群)と比較対照群(治療薬群、プラセボ群など)に分けて治験をおこない、客観的に効果を評価することだ。要するに、ある症例に対する治療法や薬剤があったとして、同じ症例を抱えている患者に対して、その治療なり薬を実際に与えた患者グループと、同じ治療と薬を与えると言いながら何もしない患者グループで、どれだけ違いが出るかを比べる。これを厳密に行うために、治療を行う医師にも、本物の治療かどうかは明かさない(二重盲検と呼ぶ)。
システマティック・レビューは、世界中で発表される研究論文を対象に、テーマを絞って研究結果をもれなく集め、その研究の質を詳細にチェック、良質なデータをまとめて分析し、中立的な視点に立って得られた結果から結論を導く。これをまとめたデータベースが『コクラン・ライブラリー』である。
ワトソン君が忙しい医師の代わりに、コクラン・ライブラリーのデータベースなど信頼性の高い論文を数多く読み込み、患者の症例に応じて最適な治療法を見つけ出す。それに基いて医師が実際の治療を施す。難易度の高い手術であれば手術ロボットの『ダ・ヴィンチ君』にお任せする。近未来の医師の役割は、従来とは大きく変わっていく可能性がある。
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