中江藤樹:武士道は隠れキリシタンが作った?/純丘曜彰 教授博士
INSIGHT NOW! / 2016年6月11日 16時0分
純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学
中江藤樹(1608~48)、と言うと、日本史でも、倫理学でも、「近江聖人」、江戸時代初期の思想家、日本の陽明学の嚆矢、「孝」を重視した、で、終わってしまっている。これは、歴史の反動でもあろう。戦前はやたら『修身』の授業で教えられた。と言っても、なんだか立派な逸話を並べ立てただけ。いったいどんな思想家だったのか、これではわかるまい。
戦国時代、美濃の斉藤龍興の配下に加藤光泰という武人がいたが、1567年、信長に龍興の稲葉山城(岐阜城)を落とされて浪々の身となり、これを敵方の秀吉が拾ってやった。以後、秀吉とともに軍功を挙げ、近江高島城主(琵琶湖西岸)ともなる。この城下に中江吉長という豪農がおり、武士になって、光泰、秀吉とともに破格の出世。光泰は朝鮮出兵で病死するも、その子、貞泰は、関ケ原の戦いのさなかに徳川方に寝返って、かろうじて黒野(現岐阜大周辺)4万石を安堵。1610年には米子6万石藩主に。大阪の陣で活躍した後、1617年には大洲(愛媛県東部)同6万石に移封。これとともに、中江吉長も、150石取り(中級武士)として同行。このとき、吉長は、次男に近江の広大な田畑すべてを相続させる一方、長男の子を自分の養子にして連れていった。これが、9歳の中江藤樹。
中江吉長は、読み書きも満足にできない粗野な人物ながら、武芸には優れ、大洲藩の飛び地、柳原領(愛媛県北部、松山市の北)の郡代になった。20年、大洲に戻るも、22年、吉長は亡くなり、藤樹(14歳)が家督を継ぐ。23年、藩主貞泰が死去、長男泰興が相続するも、次男直泰が1万石の新谷藩(大洲のすぐ東)を藩内に起こし、お家騒動が続く。加えて、25年には藤樹の実父も死去。実母を呼び寄せようとしたが拒まれ、また、新谷藩出向を命ぜられると、実母心配を理由に、34年、26歳で脱藩帰郷。
その後、藤樹は、酒屋金貸を始めた。当時、村人は年に一度の収穫時以外は現金が無く、生活物資すべてをツケで買わせていただくしかなかった。ところが、杓子定規の藤樹は、手堅いというか、融通がきかないというか、その日、一日、きちんと働いた村人にしか、新たな借金を増してまで、ものを売ってやらない。にもかかわらず、そういう本人は、一日中、ごろごろと寝てばかり。おいおい、きちんとしてるって、どういうことよ、道学先生? ということで、ここにいつの間にか私塾ができた。
だが、藤樹も、平易な言葉で考えるうちに、角が取れ、丸くなっていった。村人に語った教えをまとめたして書いたのが、『翁問答』(1640)。そして、この上巻の終わりの部分が、とくに『文武問答』と呼ばれ、しばしば武士道の第一書として挙げられる。翁と言っても、まだ32歳。これに書かれているのは、「孝」を重んじる教えと、学問論。朱子学の発展だ、いや陽明学の影響だ、と、後世にいろいろ喧しいが、藤樹は、この時期、もはや朱子学の博学主義にはあきらかに批判的。かといって、陽明学者らしく、自分自身でなにか行動を起こすわけでもない。だいいち、言葉遣いや話の形式は、伝統的なものを踏まえているが、内容が、どうみても朱子学でも、陽明学でもない。「孝」と言っても、いわゆる親孝行とは似ても似つかない。
ここで彼が根本に立てるのは、「太虚」、万物未生以前の混沌たる自然。別の本(『原人』(1638))では、「皇上帝」と呼んでいる。つまり、これは、機械論的な朱子学とは違って、人格的な神。そして、その皇上帝の「恩」で万物や人間が生じている、とされる。だから、その報恩の「孝」こそが自然と人間の道だ、と言う。彼によれば、もとより人間は皇上帝の「分身変化」であり、この皇上帝の本体である「孝」を顕現(「明明徳」)させることこそ、身を立てることなのである。ただし、ここで重要なのは、「孝」=報恩=継慈、という藤樹独自の理論展開。恩に報いる、というのは、親に直接に仕えることがすべてではなく、むしろ、自分の子に、親の恩を「慈」として継ぎ伝えてことこそ、親への報恩、「孝」になる、とする。
これが、どうして武士道になるか、と言うと、彼によれば、人間は、生物的に親の恩の下に生まれ、社会的に君の恩の下に生きるのだから、君にもまた親に等しく報恩の「孝」を尽くすべきだ、とされる。ここにおいて、「孝」は、内実の「仁」であり、形式の「義」であり、仁は文として行われ、義は武として行われる。文は武によって実現し、武は文のために実行するのであるから、文武は表裏一体。ただし、礼楽書数は文の枝葉末節の芸、軍射御兵は武の枝葉末節の芸。仁義の根本とともに本末兼ね備えてこその文武両道。これこそが、皇上帝の「孝」の顕現であり、人間の人間としての務め。
この話、どう見ても、朱子学でも、陽明学でもない。ふつうの親孝行の話が、武士道として主君への忠義にすり替えられ、しまいには皇上帝の明徳のために戦う話になってしまっている。しかし、主君に無断で勝手に脱藩し、自分で武士を捨てた藤樹が、武士道だ、主君への忠義だ、とは、片腹痛い。生業を言えば、すでに金貸のくせに、カネの話は、まったく出て来もしない。町人倫理は、次の時代の石田梅岩(1685~1744)を待たなければならない。
そもそも、孝行で知られる藤樹の経歴そのものに、いくつもの奇妙なところがある。長男の実父中江吉次は、なぜ相続から外され、藤樹が祖父吉長の養子になったのか。脱藩した藤樹が身一つで戻って郷里に酒屋金貸を始めるが、元手はどうしたのか。開いた私塾には78名の弟子が記録されているが、うち20名は伊予(大洲藩・松山藩など)の出。寺請証文など、移動が厳しく制限されてはじめていた時代に、彼らはいかにして脱藩者の下を訪れることができたのか。
祖父吉長が郡代を務めた柳原領に三穂神社がある。勧進は建武新政(1333)の頃ということになっているが、実際に社殿が建てられたのは寛政年間、つまり江戸中期。吉長がいたころは、まだ何もなかった、もしくは、ここが郡代屋敷だったのかもしれない。中に吉長が建てた中江家の小祠が残っている。ここから、今治街道を北上し、川を越えて右に曲がって行ったところに、弥右衛門堂がある。和田弥右衛門が、キリシタンとして処刑された場所。頭を残して土に埋められ、容易に切れない竹製のノコギリで首をジワリジワリと切り殺された、という。
もともと伊予(愛媛県)は、村上水軍の来島一族が支配しており、1585年には、宣教師ガスバアケルシエが許可を得て柳原に司祭館を建てている。和田弥右衛門とともに殉教したのは、和田市兵衛、来島徳右衛門。後者は、来島一族だろう。村上水軍というと海賊で粗野なイメージがあるかもしれないが、もともと村上源氏の末裔ということで、連歌会を開くなど、高尚な貴族趣味を持っていた。フロイス『日本史』(第61章)によれば、当主の来島通総(1561~97)は、黒田官兵衛とともに教義を学び、下関で洗礼を受けた、とされる。しかし、その後を継いだ来島長親は、関ケ原の戦いで豊臣方について領地没収、かろうじて森1万4石(大分県玖珠町)を安堵されるも、ここはひどい山奥で、水軍の力を失う。
加藤貞泰が1617年に伊予に移されたのも、関ケ原の戦い、大阪の陣の後の豊臣残党掃討のため。幕藩体制に取り込まれ損ねた浪人武士はいまだ巷に溢れかえっており、ポルトガル海軍の支援を仰ぎつつ、キリシタン国家建設をめざし、九州に集結して大反乱を起こすのではないか、と懸念されていた。幕府はすでに1612年に直轄地禁教令を発布し、13年、これを全国に拡大していたが、実際は野放しのままだった。しかし、19年、将軍秀忠は、改めて禁教令を出し、実際に京都六条河原でキリシタン52名を火刑にした。和田弥右衛門らの殉教も、おそらくこの年のことであり、捕縛処刑したのは、武芸蛮勇を誇る郡代中江吉長その人だったのではないか。
20年、中江吉長は大洲に呼び戻され、伴天連追放令が出ているにもかかわらず、21年にはジョバンニ・バプティスタ・ポルロという宣教師が大洲に来ている。弥右衛門処刑事件の始末のためであろう。22年の祖父の亡くなる直前、家老がやってきて、親しく祖父と語らっていたが、凡庸な雑談ばかりで、がっかりした、などと、14歳の藤樹は述べているが、家老の懸念は、むしろ跡継の藤樹のことだったのではないか。実際、杓子定規で小生意気なガリベン小僧の藤樹が、上司や同僚とうまくやっていけていたとはとうてい思われない。
その欝々とした日々の中のことであったのだろうか、フランス国立東洋語学校教授レオン・パジェスの『Histoire de la religion chrétienne au Japon depuis 1598 jusqu'à 1651 』(1867、『日本切支丹宗門史』)によれば、「四国には一人の異教徒がいて、彼は支那哲学とイエズス・キリストの教とは同じだと信じ、ずいぶん前から支那の賢人の道を守って来たのであった。彼は一伝道士に会って、己が誤りを知り、聖なる洗礼を受け、以来優れたキリシタンとして暮らした」とされている(1626年の項)。内村鑑三が中江藤樹を代表的日本人の一人として挙げたのも、この伝承を知ってのことであろうし、また、明治時代の東京帝大教授(宗教学)姉崎正治や、戦前の社会事業家の賀川豊彦、戦後に桜美林学園を創立した清水安三なども、この回心受洗者こそ中江藤樹だ、と断言している。実際、1619年以後に宣教師に会い、ひそかに洗礼を受けることができた四国の朱子学者など、藤樹のほかに考えることは難しい。
1630年代半ばにもなると、九州キリシタン反乱はいよいよ現実味を帯びてきていた。過酷な弾圧で沈静化を図っても、かえって火に油を注ぐ状況だった。大洲藩主加藤泰興も、九州出陣に備え、新たな鎧をこしらえている。藤樹の新谷藩への左遷も、この事態を踏まえてのことだったのかもしれない。無断での逐電は、敵前逃亡と同じ。当然、死刑だ。実母心配などと言っても、藩を抜ける以上、それは叶いえない。にもかかわらず、藤樹が34年に脱藩したのは、キリシタンと戦うことより、殺されることを選んだからだろうか。
ところが、かつてガキの藤樹に凡庸と評された家老の佃小左衛門、しれっと、それっきり。逐電したのに追っ手も出さず、居所もわかっていながら問い合わせすらしない。それどころか、伊予の連中が20名もかってに近江の塾に通っているのに、ほったらかし。まさか彼までキリシタンだったというわけではあるまい。むしろ、この家老の方こそ、聞を得て、難を避け、藩を守る賢明な武士道の知恵があったように思える。
果たして37年、島原の乱は起こった。だが、大洲藩は、これに巻き込まれることなく、その後も幕府の信を増し、明治まで無事に生き残った。一方、中江藤樹の思想は、東京帝大学長(哲学者)井上哲次郎によって、その皇上帝のところを天皇と書き換えられ、天皇の明徳のために戦う日本人の武士道、として広く軍国主義教育に利用されるところとなってしまった。
謝辞:中江藤樹の思想について最初に学んだのは、20年以上も前、小野晋也先生の党本部での朝食勉強会だった。人の縁は、まことにありがたい。先生は、いまも故郷愛媛新居浜などで私塾勉強会を開いている。年来、御無沙汰し恐縮至極なれど、思うところはつねに共にありたいと願っている。
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)
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