平時武士道としての朱子学/純丘曜彰 教授博士
INSIGHT NOW! / 2016年7月8日 6時0分
純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学
中間管理職の新需要
冷泉家三男、藤原惺窩(せいか、1561~1619)は、戦国の時代にあって京都御所北の相国寺で風流三昧。1590年に秀吉の天下統一を祝う朝鮮通信使一行二百名を通じて朱子学を知り、93年には江戸で家康に招かれて『貞観政要』を説くも、その後は生まれ故郷の播磨へ。家康が二千石で取り立てようとしたが、1605年、弟子の林羅山(1583~1657、22歳)を推挙し、自分は京都の北、市原の庵に引っ込んでしまった。
どこぞの浪人の息子、林羅山。行きがかり上、引き取るには引き取ったが、家康としては始末に困った。学識はあっても愛想は無く、こんなやつ、いまさら小姓にしても、というところ。おまけに、イエズス会の修道士が伝えた最新の地動説を徹底的に論破。とりあえず仏僧ということにして、息子や孫の教育に当たらせることにした。
他の藩でも似たり寄ったり。戦国武将に、朱子学が何か、なんで必要か、なんて、わかるわけがない。ただ、やつらは、やたら博学で物知り。よくわからないが、とりあえず置いておこう、というところ。金持ちの家に出入りさせている東大生の家庭教師みたいなもの。なんとなく見栄えがいい。
とはいえ、まったく役に立たないわけでもない。まず、朱子学者はたいてい医者でもあった。薬草学や天象学、兵法軍学、土木工学など、もろもろの知識はもちろん、さらには経済振興策のような知恵もある。林羅山が修道士を言い負かし、豊臣の作った方広寺鐘銘に難癖をつけて大坂の陣の戦端を開いたように、ヘリクツではだれにも負けない。時代が天下泰平となり、人事でもなんでも、物事を動かすには、世間を納得させる、もっともらしい理屈が必要で、朱子学者は、それをうまく捻り出してくれた。
こんなコンサルタントだか、ブレインだか、御典医だか、茶坊主だか、法律顧問だか、広報担当だか、よくわからない朱子学者たちが、主君寵愛の美男子の小姓たちとともに、主君の側で跋扈し始める。もっとも大老や家老まで一代で成り上がる小姓と違って、せいぜい二百石程度の中の上だったが、家禄世襲はほぼ確実で、安定した出世の道だった。
実際、需要はあったのだ。とりあえず明日、勝って生き抜くことだけに全力を傾け、その始末は後でどうにか、という戦国時代と違って、大名も、後先の遣り繰り、世評の言い訳けを考えておかないことには、収支や名目が合わず、幕府が課する御役目も果たせない。とりあえず幕府をマネて、これまでの体育会系の武闘派「番方」(警備係)とは別に、寺社奉行(住民管理)、町奉行・村代官(警察裁判)、勘定奉行(財政管理)という法文系・理数系の頭脳派「役方」(事務係)を藩内に置いてみたもの、それを担える人材も、それを回せる人材もいない。限られた所領石高の中で、番方を縮小する一方、巷(ちまた)に溢れる浪人や無役の下級武士から新規に大量の召し抱えが行われることになった。これに朱子学の心得のある若者たちが殺到した。
戦乱の時代が終わり、いくら武芸にひいでていても、せいぜい指南役くらいしか仕官の道がない。一方、朱子学を修め、ややこしい漢文法令を読んで、カネ勘定を合わせられる者には、おおいに出世の可能性が開けた。なにより朱子学を修めた若い武士たちは、その教えどおり、身辺も、行動も、きちんとしていた。経営者に代わって産業革命の現場を監督する中間管理職のレスペクタビリティ(尊敬されるべき資質)として、これこそ、もっとも時代に必要とされた素養だった。
武芸道場以上にあちこちに大小さまざまな私塾(個人的弟子入りから教室チェーンまで)ができ、前途を求める下級武士の子息たちが朱子学を学ぶようになってきた。なかでも御用朱子学者は、幕府や藩に直接のコネを持つので、幕府や藩からの家禄は中の上程度にすぎなくとも、日ごろさして主君の御用のあるわけでなし、私邸での私塾で、おおいに繁盛し、それでまた朱子学を目ざす若者たちが増えた。さらにまた、本の爆発的な普及によって、先生のいない地方などでも、独学で朱子学を学び、実践することができた。
なぜ朱子学だったのか
正直なところ、江戸前半において、朱子学が何であるか、など、わかっている主君も、若者たちも、ほとんどいなかったのではないだろうか。
儒学では、新しい学派ほど、より古い本物だ、と主張し、過去の繁栄の神話を捏造する。その最初、紀元前五百年ころの孔子からして、古代には整然とした黄金の礼治時代があり、それを復興することこそ、豪族たちの力づくの武治戦乱を終わらせる方法だ、と説いた。しかし、古代礼治など、孔子の妄想にすぎず、その黄金時代の冠婚葬祭・接待饗応がどんなものだったのかすら、よくわからない。
隋唐の科挙で儒学が、などという話も、あやしい。この官僚登用試験では、政策、詩賦、法律、算術、演説、時事のような一般教養と実務能力が問われたが、実際の任官は、身なり、言行、演説、判断という曖昧な基準で決められ、古い地方豪族の子弟が圧倒的に有利だった。しかし、実力のみで官僚となった韓愈(768~824)は、修辞過剰な貴族的文体の氾濫に対して、簡潔明快を旨とする古文復興運動を興し、古い諸子百家の文章を模範とし、これらの一つとして孔子の『論語』なども、新官僚の「士大夫」たちの間で高く再評価されるところこととなる。
だが、これで儒学が確立した、などということはない。儒学もなにも、孔子が主張した礼治には、あいかわらず実態が無かった。孔子も、その弟子たちも、歴史の中では、結局、実際に国家典礼に関わる地位まで登用されたことなどなく、また、彼らの聖典となるべき黄金古代の国家典礼を説明する『礼経』などというものは最初から存在しておらず、やむなく『周官』(周の官僚制度の説明)、『儀礼(ぎらい)』(士クラスの典礼)、『礼記(らいき)』(制度典礼に関する論評集、「経」より下の「伝」)の三つをもって、『礼経』に代えていた程度。
この後、中国はふたたび五代十国の混乱に陥り、960年にどうにか北宋が成立。ここにおいて、ようやく皇帝直属の官僚制を実現すべく、科挙を徹底する。しかし、試験科目は、実務に関わらない政治的な士大夫たちの古典趣味のせいで、実務能力よりも、古典学知に大きく傾き、伝統的な古典の『詩経』(詩賦集)や『書経』(演説集)の些末な暗記が中心となってしまった。
1070年、日本では摂関政治が終わって上皇院政が始まるころ、王安石(1021~86)という宰相が登場し、大官僚、大商人、大地主を抑えて、若手の官僚や中小の商人や農民を活性化する「新法」の改革を興した。これとともに、さらに大言壮語するような有為の人材が抜擢されるようになり、政治の理想を熱く語る『論語』や『孟子』がようやく科挙でも重視されるようになる。
とはいえ、『論語』や『孟子』は、時と場に応じて日常語で語られた対話集であり、孔子や孟子の全体的な政治思想体系など、いくら読んでも、よくわからない。しかし、もともと孔子の家業が葬儀屋で、世と人の吉凶幸禍を占うことを好み、『易経』の注釈も書いたとされるため、隋唐より前から孔子を民間習俗的な老荘思想の道教と関連付けようとする見方があった。そして、王安石と同じころ、『易経』の背景にある形而上学(世界観)を道教の陰陽五気でがっちり説明した「道学」が、周敦頤(しゅうとんい、1017~73)によって模索され、この道学によって『論語』や『孟子』のばらばらな対話集に出てくる日常的な字句言表を統一的な専門術語として厳密に解釈しようとする、むちゃくちゃ強引な思潮が、無務高位・些末学知・大言壮語を特徴とする士大夫たちの間でひそかに流行し始める。
しかし、どう考えても、こんなもの、無理がある。まともな連中の間では、冗談以上に語るようなものではなかった。ところが、科挙で成績が悪く、地方に飛ばされた朱熹(1130~1200)は、『礼記』から勉学論の「大学」、修養論の「中庸」の二篇を抜き出し、これを『論語』と『孟子』の上に据え、道学に基づく細密な注釈を施した。朱熹は無名低位ながら、当時ようやく確立したばかりの木版技術で大量に『論語』『孟子』『大学』『中庸』の四書を印刷して中国全土に安価に流布し、その注釈に自説を紛れ込ませることによって、朱熹の解釈、朱子学こそが正統主流である、と世間に錯覚させることに成功してしまった。そして、中国の伝統文化がよくわかっていないモンゴル人の次の元朝(1271~1368)おいて、朱子学の解釈のみが科挙の正答であると国家公認を受けるところとなる。
もちろん、朱子学は、時代に合った要因があった。第一に、礼治の思想はかろうじて引き継いだものの、ありもしない妄想の黄金古代様式で国家典礼を司る、などという孔子以来の儒学の野望は、あっさりと捨て去ってしまった。実際、当時、科挙に受かっても、国家典礼レベルの外交内政に関わるほどの高級官僚になることは、まずありえず、下級官吏の朱熹にしても、そんなものは、まったく縁の無い話だった。また、第二に、この国家典礼による礼治の思想を、個人の修身居敬の話に矮小化し、最下級の官吏ですら守るべき生活の美徳として一般抽象化してしまった。これによって、禅仏教などに流れていた自己啓発・立身出世を好む連中が、朱子学に飛びつくことになった。そして、第三に、その修身居敬とは、まず天理を学ぶことであり、格物致知である、とした。つまり、実物観察に基づく実証科学こそが、自己啓発の門であり、立身出世の道である、ということになり、地主で商人で官吏も兼ねているような田舎の下級指導層である士大夫たちが、朱子学を実践することにおいて、農業から工業まで、新技術の産業革命を引き起こし、実際に驚異的な経済発展を実現させていった。
いくら孔子本人が貧乏困窮して多職多能だったとはいえ、実証科学をやりなさい、と弟子たちに教えた、などという文言は『論語』には無い。にもかかわらず、よくもまあ、それこそが孔子の真意だ、などと、朱子は説いたものだ。それを信じる連中も、どうかしている。しかし、朱子学はむちゃくちゃでも、結果はとりあえず大成功だったのだ。そして、どう読んでも、まったくわからないが、とにかくすごいらしい、ということで、朝鮮や日本も、この朱子学とやらを取り込むことになる。
江戸初期の爆発的出版ブーム
じつは室町時代、日明貿易で大量の朱子学木版本が日本に入ってきた。僧侶は、それぞれの宗派で独特の漢文の返り点読み、つまり、漢文をそのまま訓読みにして日本語に変えてしまう技法を持っていたが、新興の禅宗において、この返り点読みが高度に発達し、洗練された手法となっており、ちょっと寺で学んだことのある者であれば、だれでも朱子学木版本くらい読めてしまったのだ。
戦国時代、キリシタンや朝廷・幕府は西洋風の金属活字を試みたが、江戸時代に入ると、民間で木版が復興。ここにおいて、返り点やカナ訓読、行割注釈まで細かく書き込んだ版面が可能となり、朱子学本なども、日本で注釈付きで再翻刻され、大量に流布することとなる。京都には72もの出版屋ができ、その他の城下でも著作権もへったくれもなく複製再版され、大阪心斎橋などの本屋、縁日露天商、雑貨行商などによって、古典から艶本、朱子学から御伽草子まで、大量の本が全国に出回るようになる。
よく学統が、などと言われるが、そんなもの、戦国末期以降、意味をなさない。たしかに各地に私塾ができたが、先生に弟子入りなどしなくても、いくらでも本で朱子学を学ぶことができてしまったのだ。冒頭の藤原惺窩にしたところで、朱子学者に弟子入りして習ったわけでなく、江戸初期の滋賀の中江藤樹なども、朱子学者に付くことなく、本から朱子学を学んだ。幕府お抱えになった江戸の林羅山は世襲学統を作って守ろうとしたが、京都五山、足利学校、臨済諸寺、薩南学(五山系薩摩藩)、南学(土佐藩)などの方が、朱子学においても歴史も古く、レベルも高く、空回りするばかり。
実際、林羅山は、御用学者でもあり、彼の朱子学からして大きな問題があった。彼は、「上下定分」として、鳥が飛び、魚が泳ぐのが天理で、人間も尊卑貴賤の身分は、乱されえず、乱してはならない、とする。しかし、朱子学が多くの人々を魅了した理由は、朱熹が、修身居敬に努めればだれでも聖人になれる、としたところにこそある。テキストを権力で独占隠蔽支配できる時代であったならともかく、この爆発的な出版ブームで朱熹本人の漢語原文も直接に確認することができる時代にあって、林家朱子学が歪曲のインチキ御用学であることは一目瞭然。朱子学に無関心で、幕府に媚びて立身出世を願う者はともかく、真に朱子学の道をとる者は、自力で書物や現実から朱子学、そして自然科学や社会科学を学んでいった。幕府の八代将軍吉宗も、林家を相手にせず、むしろ市井の朱子学者たちの実学を奨励し、林家湯島聖堂も廃止しようというほどの零落。
しかし、市井の朱子学者たちの学究の姿勢は、朱子学そのものにも向かう。ろくに本を読もうともしない陽明学はともかく、朱子学の内部において、朱熹の思想の独断的ないかがわしさは、中国においても、日本においても、大きな問題となっていった。すなわち、四書だけでなく、その他の中国古典も容易に入手できるようになると、朱熹がどう言おうと、『論語』や『孟子』と同時代の他の文献での語用、当時の歴史的な事実を厳密に再確認する考証学、古学が発達し、道学、とくに朱熹のように四書を統一思想として強引に解釈することには無理があることが明らかになってしまう。この過程において、朱子学の解釈もばらばらになり、百家争鳴。
1790年、寛政異学の禁によって、老中松平定信が古学などを禁じ、林家御用朱子学のみを正統として、湯島聖堂も拡大、昌平坂学問所を新設した。とはいえ、どこの藩も、科挙で門閥を排する、などというような、自分たちの足元を危うくするようなことをするわけもなく、いくら正統を定めても、それが科挙の正解というわけでなければ、だれもそんなものを重視しない。それどころか、羅山の大義名分論はかえって、戦時継続を理由に天皇を差し置いて政権を簒奪し続けながら、米欧夷狄の来襲になんの手も打てない幕府の不義無能を白日の下にさらしてしまい、市井からの尊皇攘夷、倒幕運動に火をつけることになってしまう。
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)
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