『奇跡の脳』ジル・ボルト・テイラー(新潮文庫) ブックレビューvol.11/竹林 篤実
INSIGHT NOW! / 2016年7月22日 8時10分
竹林 篤実 / コミュニケーション研究所
脳卒中をリアルに学ぶ
本書の著者、ジル・ボルト・テイラーは、脳の血管にある先天性の奇形のために37歳の若さで、突然脳卒中に襲われる。本書に記されているのは、脳卒中に襲われた、その朝から8年後に完全復帰するまでのドキュメンタリーである。まず、この点をもって本書は極めて貴重な実用書として、多くの人に役立つ。
その理由は、著者が優れた脳科学者であることによる。ハーバード医学校で脳神経科学の専門家として研究に携わっていた著者は、いわば脳に関するプロである。従って、本書には、脳卒中に襲われた瞬間(それは12月の寒い朝だった)からの記録が、脳科学者の冷徹な目で克明に記されている。
つまり、人が脳卒中にやられると、どうなるのか。病魔が脳を侵していく様子が、時系列でクリアにプロの視点で記されている。これは極めて有用である。なぜなら、著者の身体に起こったのと似たような異変を感じた場合は、まず脳卒中の疑いがあるからだ。脳内での出血は、時間が経つほど重篤な被害を及ぼす。万が一、本書に書かれているような状態になったら、ためらわずに助けを呼ぶこと。これが、本書からの第一の学びである。
脳卒中からのリハビリを学ぶ
著者の脳内では、左脳で出血が起こっていた。途切れそうになる意識を、なんとか引き戻し、電話の意味さえもわからなくなりながら(左脳で出血しているので、ものごとを認識できなくなる)必死の思いで電話をかける。このあたりの描写は、見事なサイエンス・サスペンスである。
同僚が助けに来てくれた時には、出血はかなりひどくなっていた。そんな状態から開頭手術に臨み、奇跡的に復活する。その過程で参考になるのは、脳卒中から復帰するためのリハビリの進め方だ。
まず、必要なのは、全力の愛情で支えてくれるサポーターの存在だろう。著者の場合は、母親がその任に当たっている。サポーターに求められるのは、復帰したい思いを後押しすること。甘やかしてはいけないし、もちろん無理をさせるほど厳しすぎてもダメ。そして、何より大切なのは、本人の復活を信じきること。具体的なリハビリトレーニングの詳細は、本書を読んで参考にしていただきたい。
右脳の働きを再確認する
著者は、左脳内部の高度な思考中枢にダメージを受けた。そのため認知能力を失ってしまう。人の話しを聞いても理解することができず、もちろん自分も話すことができない。「言語と計算の技術を失いつつ(同書、P50)」ある状態だったのだ。
ところが、これこそは実体験した人だからこそ語れる内容だと思うのが、苦しむと同時に「心地よい安らぎにとってかわられ(同書、P50)」てもいたという。一体どういうことなのだろうか。
「出血中の血液が左脳の正常な機能を妨げたので、知覚は分類されず、細かいことにこだわることもなくなりました。左脳がこれまで支配していた神経線維の機能が停止したので、右脳は左脳の支配から解放されています。知覚は自由になり、意識は、右脳の静けさを表現できるように変わっていきました(同書、P53)」
そのまま、心地よい世界に身を任せてしまっていたら、本書は生まれていない。そこから必死の頑張りで、左脳も機能する現実世界に著者が戻ってきたからこそ、本書は世にでることができた。
けれども、リハビリによる回復の過程で、著者は右脳の重要さを認識する。
「涅槃(ニルヴァーナ)の体験は右脳の意識の中に存在し、どんな瞬間でも、脳のその部分の回路に「つなぐ」ことができるはずなのです(同書、P175)」。この覚醒により、著者は、以前と同じような仕事をしながら、以前のようなストレスからほぼ完全に解放されていく。回復した左脳は、自分の力で黙らせることができる。それにより、心の平安を保つことができる。これが本書が教えてくれる3つめの学びである。
医療関係者にも、ぜひ読んでもらいたい
忙しいのは承知の上で、本書をぜひ読んでもらいたい職種の人がいる。まず医師、そして看護師である。脳卒中に陥った患者は、何をどう感じているのか。患者が求めているものは何か、立ち直るために何が必要なのか。
左脳にダメージを受けた患者という限定条件はつくものの、本書は医療関係者にとっても極めて有効なテキストとなる。一般の脳卒中患者では、決して描写することのできない、患者の感じ方、心の動き、思考、求めなどが、自らが患者になった脳神経科学者の冷徹な視点で描き出されている。
脳卒中から復帰できた人は、たくさんいるだろう。けれども、脳卒中から復帰できた脳神経科学者は、世界中を探しても、ごく稀なはずだ。さらにその限られた一部の人たちの中で、文才にも恵まれた人は、おそらく世界に一人だけしかいない。それがジル・ボルト・テイラーである。その意味で本書は、唯一無二のサイエンスドキュメンタリーである。
自分の感覚に感謝できるようになった
個人的には、この本を読んで、自分の感覚に感謝することを覚えた。例えば、お昼ごはんに食べた炒飯。ひと口ごとに微妙に味わいが異なる。その違いを感じられるのは、自分に感覚があるからだ。
目にするもの、耳から入ってくるもの、食べ物、飲み物、香り、そして体全体で感じるもの。新幹線でたまたま隣りに座った人に対しても、自分にある種の感覚を与えてくれている。そう思えば、自分が五感で感じることのできるすべてのものに感謝できる。脳が死んでしまったら、感覚も消えてしまう。
感覚を持って生きていられることの、幸せに気づかせてもらった。
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