1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. 経済

ミカンはどこからやってきた?:古代渡来人の秘宝/純丘曜彰 教授博士

INSIGHT NOW! / 2017年2月15日 6時31分


        ミカンはどこからやってきた?:古代渡来人の秘宝/純丘曜彰 教授博士

純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学


 手紙、といっても、中国ではトイレットペーパーのこと。登机、といっても、中国では飛行機搭乗のこと。同じ漢字だからといって同じものを指すとは限らない。


 日本で最初の柑橘類の話と言えば、『魏志倭人伝』。倭の国の産品として、ショウガやタチバナ、サンショ、ミョウガもあるが、「もって滋味となすを知らず」とある。ここでいう「橘」は、前後の並びからして、香辛料の一種。七味に陳皮、つまりミカンの皮の粉末が入っているが、これは漢方の胃薬「六君子湯」にも使われている。つまり、日本には「橘」があるが、薬味としての使い方を知らない、食用ではない、ということ。


 次に出てくるのが、『日本書紀』と『古事記』。垂仁天皇が亡くなる直前の2月1日に、三宅(みあけ)氏の祖、多遅(たじ、田道間(たじま))守を「常世国」に使わせて、「ときじくの香久の木の実(非時香菓)」を探しに出した。しかし、天皇は、7月1日、纏向(纏向)の宮で亡くなり、菅原伏見陵に葬られた。奈良のその後の唐招提寺のすぐ西北のところ。多遅守は、翌年3月12日、縵八縵・矛八矛(かげやかげ・ほこやほこ、八竿八縵(やほこ・やかげ))持ち帰ったが、すでに天皇が亡きことを知って嘆き、半分を皇后に献上し、残りを御陵に供えて、そこで多遅守も死んだという。『古事記」は、わざわざ注をつけて、この実は「今の橘」だ、としている。


 神職のくせに、まともに『記紀』も読めないのか、持ち帰った橘を多遅守が植えたのはここなんです、などという妙な商売神社が和歌山にあるが、『記紀』だと多遅守は奈良の御陵の前で死んでおり、和歌山くんだりまで植えに行かれるわけがない。そもそも持ち帰ったのは、苗ではなく、縵と矛(竿)。つまり、実をいっぱいに入れたカズラ籠八つと、干からびた実が枝についたままのもの(ダイダイのたぐいは熟しても枝から落ちない)を八つ、持ち帰ったのであって、土付き苗なんか、遠方から持って来たって、そんなものが木になって実がなるのを待っていたら、目前に死の迫った天皇に、間に合うわけがない。


 また、本人の嘆きによれば、往復十年だが、日付入りの『紀』だと一年。本来なら、探しに出したのがまだ2月なのだから、その年に収穫できた実を天皇の下にすぐに持っ帰って来るべきはずなのに、その機を逸し、翌年の冬に実が熟すのを待って、3月12日に持ち帰って来ている。ということは、「常世国」は、奈良纏向宮から、ちょうど片道三月くらいのところのはず。


 もっとも重要な問題は、『古事記』の注。この追記が書かれたのは、700年ころ。「今の橘」というのが、何なのか。じつは、これが「昔の橘」とは違うらしい。『古事記』の万葉仮名(当字)で「ときじく(登岐士玖)の香久の木の実」と言い、『日本書紀』では「非時香菓」とある。だが、「非時」は「ときじく」とは読まない。おまけに、「ときじく」の後に格助詞の「の」があるから、これは名詞だ。なのに、多くの解説は、むりやり、ずっとつねに、というような文法無視の訳を付けている。


 だが、「ときじく」=「非時」なら、「ときじく」は天竺(てんじく)、「非時」はヒンディ、つまり、インドのこと。この「木の実」は、インド、アッサム地方が原産のトロピカルフルーツ、マンダリンオレンジ。つまり、「橘」は、あの小さくて苦く、酸っぱく、薬味にさえ使われていない国産のタチバナの実ではなく、中国で言う「橘」、つまり、糖度15度を越える甘く大きなマンダリンオレンジのことを指していた。


 紀元前300年頃の詩人、屈原が『橘頌』に歌っているように、マンダリンオレンジは、当時、中国において、遷し植えがたい絶対的な南国固有種であり、白い花、鋭い棘、美しい実、と、手本にすべき君子聖人の徳に喩えられ、その志操を讃えて、高級官僚は橙色の官服を着用した。それで、この「橘」は、後に欧米に「マンダリン(官僚)オレンジ」と呼ばれることになる。


 しかし、垂仁の時代、奈良纏向宮まで三月ていどのところに、マンダリンオレンジがあったのだろうか。後の遣唐使のように蘇州~門司と東シナ海を渡るだけなら十日だが、冬の極寒の荒天に天気待ちをしていたら、かなり難しい。むしろ、国内のどこかだったと考える方が妥当だろう。ここで、700年ころの「今の橘」が、『魏志倭人伝』のころの日本野生の「昔の橘」とはまったく別物であることが、大きなヒントとなる。秦の始皇帝の時代、つまり、紀元前200年頃から、徐福の伝説にあるように、多くの中国系渡来人が日本に押し寄せてきていた。秦氏、と呼ばれる連中だ。もともと多遅守は、自称新羅王子で日本に帰化したアメノヒボコの五代目。彼がマンダリンオレンジ探索を命じられたのも、彼自身が帰化人であったからにほかならない。


 秦氏、といっても、さまざまな帰化人部族が、この同じ名で呼ばれている。その中でも大物が、秦河勝。聖徳太子の側近で、587年には仏教改宗に反対する物部守屋の首を刎ね、当時はまだ損野(かどの)と呼ばれていた京都盆地で一大勢力をなした。京都御所も、もともとは彼の屋敷であり、そこに、後に「右近橘」と呼ばれることになる「橘」があったのだ。

PR 純丘曜彰の新刊!『アマテラスの黄金:隣のおねえさんはローカルすっぱい!』


 この秦河勝が、644年、つまり、蘇我氏を滅ぼす大化の改新(乙巳の変)の前年に、みずから遠く駿河の富士川まで攻め込んでいる。ここに、日本最古のカルト新興宗教教団ができて、騒乱を起こしたからだ。首領は、大生部(おおうべ)多(おお)。彼らは、神樹蚕(しんじゅさん)という蛾を常世神として祭り、貧者は富み、老者は若返る、と説いた。このブームは、周辺にまで瞬く間に広がっていった。


 『日本書紀』は、重要なことをぼかしている。この神樹蚕は、野生ながら繭玉を作る。卵から生まれ、繭になって、そこから蛾として飛び立つ。それは、死と再生の象徴だった。それだけではない。この繭からワイルドシルク、つまり天然の絹糸が取れた。それは、莫大な富をもたらす。おまけに、そのサナギや繭クズは、高タンパク、高脂肪、高アミノ酸で、絶大な薬効があった。そして、なにより、この蛾が突然に増えたのは、その幼虫が外来の常緑樹「橘」を好物にしたから。


 秦氏、ないし、中国系帰化人は、早くから三河から遠州富士川にかけて入植し、家畜化した養蚕と機織、そして「橘」の栽培をやっていたのではないか。それが、その「橘」を喰い荒す日本固有種の蛾を増やしてしまい、おまけにその蛾の繭で安価に絹糸を取れたのでは、中国系帰化人たちとしては、ほっておくわけにはいかなったのだろう。そして、この新宗教の新産業に、蘇我氏も一枚、かんでいたのかもしれない。だからこそ、翌年、大化の改新として、蘇我一族が一掃される。


 しかし、改新をやり遂げた天智天皇は、親百済派だった。中国と新羅は百済を攻め、天智天皇は、中国新羅連合軍が日本に侵攻してくることを怖れて、近江に都を遷した。そして、672年の壬申の乱。これを支援したのは、伊勢以東の「海人」、中国系や新羅系の太平洋岸入植帰化人だった。一説には、斎宮(天皇の娘)はその人質であり、伊勢神宮の造営費も秦氏らが出したと言う。


 さて、律令の官僚制に切り替えつつあった700年頃、屈原が官僚の鑑と詠った「今の橘」は、貴族たちの間で大人気だった。『万葉集』でも、71首もが「橘」を詠んでいる。壬申の乱で天武天皇の側近だった犬飼大伴の娘は宮中女官となり、藤原不比等の後妻となって、光明子を産む。そして、708年には、元明女天皇から「橘」姓を賜った。いわく、橘は、果物の最上、人の好むところ。枝は霜雪を凌ぎて繁り、葉は寒暑を経ても萎まず。珠玉とともに光を競い、金銀を交えていよいよ美しい、と。

PR 純丘曜彰の新刊!『アマテラスの黄金:隣のおねえさんはローカルすっぱい!』


 716年、光明子が聖武天皇の后、光明皇后になる。その異父兄の葛城王は、36年、臣籍に降りて、あえて母の「橘」姓を継ぎ、橘諸兄(もろえ)となる。おりしも、天然痘の流行で藤原家の連中が死去。40年には聖武天皇に、むりやり自分の本拠地、山城南部木津川市(奈良の県境)の恭仁京に遷都させる。756年に失脚するが、その後も、1574年に和歌山に有田みかんが植えられるまで、このあたりが関西みかんの一大生産地だった。


 ところで、アメノヒボコ、そして多遅守の子孫の三宅氏は、900年頃、荘司として遠江の国、引佐の井伊谷に着任。そして、その屋敷の井戸のところに「橘」を植えた。これこそが、まちがいなく多遅守が「常世国」から持ち帰ったもの。その後、その末裔は伊井家となり、彦根に移っても、その家紋には橘が用いられた。


 垂仁天皇に命じられて多遅守がマンダリンオレンジを手に入れたのは、距離からして、おそらく遠州、それも富士川に近いところだろう。『竹取物語』にもあるように、常世の国=不死の国=富士の国。死期の迫った持統天皇が季節も厳しい702年の晩秋~初冬に遠く浜名湖まで旅をしたのも、この不老不死の霊薬、マンダリンオレンジを得るためだったのかもしれない。だが、いま、秦河勝の屋敷を継いだ京都御所紫宸殿跡にも、橘諸兄の山城国木津川市にも、遠州三宅氏の井伊谷屋敷跡にも、当時の「今の橘」、マンダリンオレンジは残っていない。日本在来の神樹蚕(しんじゅさん)が喰い荒らしてしまったのだろうか。それとも、そんなものは、最初から話だけの幻の宝だったのか。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『死体は血を流さない:聖堂騎士団 vs 救院騎士団 サンタクロースの錬金術とスペードの女王に関する科学研究費B海外学術調査報告書』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

PR 純丘曜彰の新刊!『アマテラスの黄金:隣のおねえさんはローカルすっぱい!』

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください