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古代ローマの欺瞞とイエスの理想/純丘曜彰 教授博士

INSIGHT NOW! / 2017年6月28日 0時6分

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純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

不信の悪循環

 蓋をすれば実は腐る。古代ローマは、巨大な版図とともに、多様な文化を許容しなければならなくなった。世界国家、民族平等、民主主義、と、建前は華々しいが、Wスタンダードどころか、そのときどきにどこかの州邦の理屈を持ち出すことで、ホモでもレズでも、一夫多妻でも一妻多夫でも、不倫でも乱婚でも、なんでもありの倫理崩壊。その一方、外で公言はしないものの、これらを心底で嫌う民族保守主義はかえって強化され、社会相互の偏見と反発と分断は、より陰湿になった。

 政治は、さらに陰惨。正義を高く唱いながら、まさにその正義の名において、あること、ないこと、言い立てて政敵を叩き潰す邪悪な隠謀や煽動が横行。さらには、カエサルがやられたように、集団暗殺さえも躊躇しない。恩も仇で返される、というより、最初からすべてワナ。応援してやろう、ファンなんです、なんて、みんなウソ。世話になってむしり取り、そいつを売ってまたむしり取ろうという二重取り目当てのやつらがすり寄ってくる。気を良くして中に入れたら最後、さんざんいいように利用し尽くした上で、こいつ、こんなこと言っていた、やっていた、と、さも以前は昵懇で、内情もよく知ったかのように、でたらめを言いふらして、かつての政敵、次の標的に乗り換えて、またむしり取る。

 ようするに、人が信じられない。それどころか、身近なヤツほど、うさんくさい。自分が裏切りを企むように、だれもが裏切りを企んでいるに違いない。だったら、こっちが先に裏切ってどこが悪い。やられる前に、やってしまえ。こうして、不信感の疑心暗鬼は、現実のものとなり、古代ローマは、オオカミがオオカミを襲い合って食い殺すような、裏切りの悪循環を起こした。

 だから、こんな時代、無事に生きるための思想がはやった。一つは、懐疑主義。誰にも恨まれないよう、なにごとにも白黒つけず、のらりくらりとボケたふりをしながら世を渡る。もう一つは、快楽主義。世間の物事に主義主張などいっさい持たず、むしろ露骨にその時々の損得のみで動くことを公言し実行する。けっして尊敬されないが、これはこれで恨まれない。そして最後は、禁欲主義。もっと注意深い。所与の中だけでどうにかする。いくら得でも、よけいなことには手を出さない。ようするに、いずれも他人との関係を最小限に絞り込んで身を守ろうとするもの。しかし、こんなことをしたところで、孤立する者ほど標的となり、マウンティングの踏み台として集団の餌食にされた。


辺境ユダヤのイエス事件

 ローマの東の端のイェルサレムは、もっと面倒だった。ここは地中海ベイルート港からインド洋アカバ港に抜ける交通の要衝で、祭司王が治めるユダヤ王国として独立自尊を保っていた。すなわち、彼らは、自分こそが唯一神に選ばれた民であり、本来であれば世界をも支配すべき者だ、と信じていた。

 その国の武将アンティパトロスは、ローマのカエサルに取り入り、その息子ヘロデをユダヤ王国北西部ガリレア州知事に。そして、以前からの王族内の争いが再燃すると、ヘロデはローマ市へ行って元老院に訴え、「ユダヤ王」の名を認めさせて、軍を借り、紀元前37年、王国を乗っ取り、自分の妻を含めて旧王族を皆殺し。しかし、こいつも紀元前4年に死去。長男が相続したイェルサレムを含む西南部は、紀元6年にローマが没収して直轄領に。つまり、こいつらは、ローマを利用するつもりで、ローマに利用されただけ。

 次男が相続した東部と、三男が相続した中央部は残ったが、その中央部過半を占めるデカポリスは、アレキサンダー大王によって植民されたギリシア人たちが多く、都市同盟を組んで、ヘロデ家には従わない。おまけに、次男が死んだ。このままでは、そこもローマに没収されてしまう、ということで、紀元前36年、三男ヘロデ・アンティパスは妻を追い出し、兄(次男)の未亡人ヘロデアと再婚。

 おりしも巨大帝国ローマの支配下にあって、ユダヤ人は、選民思想の傲慢さを拗らせており、現実主義のサドカイ派、原理主義のパリサイ派、厭世主義のエッセネ派が、ユダヤ内部で憎み合っており、もとよりヘロデ家は、ローマ傀儡の王位簒奪者で、ユダヤ人のだれもから嫌われていた。中でも、過激な言動で人気を集めていた洗礼者ヨハネが、近親結婚だ、と噛みついた。ところが、未亡人連れ子のサロメ(男の娘(こ)?)が、自分になびかないヨハネの首をあっけなく刎ねてしまう。

 その後、ヨハネのファン残党をイエスという男がまとめていくが、周囲はかってに洗礼者ヨハネと同じ反ローマ、反ヘロデ家を期待し、新たな「ユダヤ王」に押し上げようとした。しかし、本人にその気が無いことがわかると、こんどはその処分をローマやヘロデ家に求めた。このわけのわからない混乱のなかで、イエスは拘束。裏切ったのはユダだけではない。第一の使徒と指名されて喜んだペテロさえイエスを知らないと言い、棕櫚を振ってイエスを讃えた者ほど、磔刑を叫んだ。裏切られる前に裏切ってしまえ。これがこの時代のならいだったのだ。

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イエスの教え

 イエスの教えは、山上の垂訓にまとめられている。その要点は、福音の逆説、律法の精神、神人の類比の三つ。すなわち、神が人を救うように、あなたが人を救いなさい。ただ書かれた律法を守るだけでなく、律法を与えた神の思し召しを理解しなさい。そして、いま不幸な人々こそ、これから神とともにあって幸せになることができる。

 当時、イエスのそばに使えていた使徒たちも、この思想の意味を理解できなかった。しかし、学識高いパウロは、イエス一派の残党狩りをしているうちに、気付いた。これはもはやユダヤ教ではない、イエスこそが神だ、と。これまで、宗教と言えば、みな神にすがって、我欲を満たそうとするものだった。ところが、イエスの教えは、不幸な自分はもう救いがきまっている、だから、人を救え、というもの。

 たとえば、一人暮らしを始めたばかりのきみがカゼをひく。深夜なのに、熱が出て、咳が出て、眠れもしない。薬でもあればいいが、あいにく買い置きも切らしている。へたをすれば、このまま死んでしまうんではないか、と思ったそのとき、コン、コン、と小さなノックの音がする。耳鳴りか、とも思ったが、また聞こえる。はーい、だれですか。あー、遅い時間、ごめん、隣の山田だけど。あ、いま開けます。なんかずっと咳が聞こえてるからさ。すみません、もう静かにします。いや、そうじゃなくて、なんかひどそうだね、薬、飲んだ? いえ、ちょうど切らしていて。あーそうかぁ、ちょっと待ってな、市販のだったら、うちにあるから。え? ま、とにかく薬を飲んで、寝るのがいちばんだよ。

 翌朝、御礼に行く。でも、いない。その後もなんどか様子をうかがうが、いつもすれ違い。そうこうしているうちに、いつの間にか引っ越してしまったらしい。あんな世話になりながら、自分は御礼も言えなかった。なんておれは不義理なやつだ、と夜遅くまで気に病んでいたら、隣から咳が聞こえる。居ても立ってもいられず、きみは薬箱からカゼ薬を取り出し、廊下に出てドアをノックする。おーい、だいじょうぶか?

 人が神のしもべとなって、神の思し召しを実行するなら、そこに神の御手は現実のものとなる。そして、その救われた人が、また人を救う。神がいるか、いないか、など、問題では無い。神のしもべがいれば、その主である神もまた、そこにともにある。こうして、その救いは広がり、我々は神の到来を目の当たりにすることになる。言わば、救済のネズミ講。その最初の種銭をイエスは無償で我々に与えた。だから、パウロにしてみれば、イエスこそが神。

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社会の再構築

 そのころ、ローマでは、あいかわらず懐疑主義、快楽主義、禁欲主義がはやっていた。ひとはひと、他人に関わるな、見て見ぬふり、聞いて聞かぬふり。裏だらけの時代では、それが身を守る方法。しかし、パウロが広めたイエスの教えは、民族の壁を越えて、少なからぬ人々を魅了した。白黒をはっきりさせ、自分の損得を度外視し、現状に甘んじたりせず、いつか理想のパラダイスが実現することを夢みた。

 どうせ人は死ぬのだ。人を裏切るようなきわどい手段で、どんなに地位を得て、財産を貯め込んでも、死ともに俗世のものは俗世に返すことになる。失う不幸が絶対的に運命づけられている。一方、たとえ自分自身が貧しく無名であっても、直接に医者や教師になれなくても、餓死しかかった子供たちを親身になって救い支えれば、その子供たちの中から医者や教師になる者も出て、さらに子供たちを救い教えることができる。神のしもべとして自分が尽くした人々のうちの何人かが、自分のこと、そして神のことを思い出し、また同様に神のしもべとして働くなら、この善意の大きな流れにおいて、きみは永遠に生きることができる。

 さて、現代はどうだろう。外できれいごとを言う人が、人を蹴落とすためには手段を選ばず、裏であれこれ画策。神も、仏も、なんの信心の無いやつは、人間として絶望的で、なにをするか、わかったものじゃない。さて、ここで、こんな連中に巻き込まれないように、とにかく誰との関わりをも断って、ただ身を守ることに汲々とし続けるか。それとも、時勢に逆らい、捨て石になっても、もっと違う世の中へ、自分から一歩を踏み出してみるか。きれいごとを言っているだけでは始まらない。まずは、隣人から、御近所から、なにかできることがあるのではないか。裏切りに次ぐ裏切り、人が人を喰らう悪循環、社会崩壊をとどめ、むしろ逆に、結束、再生へと廻し始めるには、相応の覚悟が必要だ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近書に『アマテラスの黄金』などがある。)

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