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エデンの知恵の木の実:キリスト教的世界観/純丘曜彰 教授博士

INSIGHT NOW! / 2017年7月4日 2時45分


        エデンの知恵の木の実:キリスト教的世界観/純丘曜彰 教授博士

純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

 もとはと言えば、神が5日で世界を作って6日目、そこに「神の似姿(イマーゴ・デイ)」を入れたことから始まる。言わば、鉄道模型を作ったものの、なんだか閑散としているということで、ミニチュア人形も置いて、そのミクロ目線のカメラでジオラマを楽しもうとしたらしい。

 神はすごい。この模型、魚は泳げ、鳥は飛べ、というように、それぞれの物に「摂理」と呼ばれるプログラムが仕込んであって、神が7日目に寝ていても、あれこれが自分のプログラム通りに役割を果たしていくことで善なる世界が完成するように作られている。

 ところが、神のミニチュアである人間は、神と同様の自由が半端にプログラムされていた。だから、神は、知恵の木の実と生命の木の実だけは喰うなよ、と、よくよく教えたのだが、蛇に唆されて、知恵の木の実の方を喰ってしまった。このままだと、生命の木の実まで喰って、ほんとに神のようになりかねん、ということで、早々に楽園から追放。模型世界の端っこのひどいところで労働や出産の苦しみに呪われることになった。

 もともとこの模型世界にあるものは、ぜんぶ被造物。自立して存在しているのではなく、神によってこそ存在している。コンセントを抜いたら、画面の中のすべてのものが消えてしまうようなもの。各瞬間ごとに神が在らしめているだけ。人間も、神の似姿とはいえ、しょせんは神の気まぐれによって在らしめられているだけの被造物。

 それにしても、知恵の木の実を喰った人間は、ひどい。世界の端っこに追いやられたにもかかわらず、その後も懲りずに、神のように思い上がった自分の判断で、やりたい放題。善なる世界がおのずからできるはずだった摂理プログラムが、どんどんガタガタになっていく。それで、いいかげん神もぶち切れて、世界を洪水でリセットしたり、背徳の街を焼き潰したり。それでも、あいかわらず、ロクなことをしない。それで、ちょっとましそうなモーゼというやつを選んで、生活マニュアルの律法を教えてやったのだが、これにさえもまた、ああだこうだと言い争って、守りゃしない。

 しょうがないから、神が自分でミニチュア人形になって模型世界の中に入り、摂理プログラムを修復しようとした。これがイエス。このイエスの世界再生プログラムに従えば、ちゃんと善なる世界になる。でも、どうしても従わない連中については、そのうちまとめてコンセントを引っこ抜いて消すことにしている。その話も伝えたのだが、まったくあいかわらず、というのが現在のところ。

 鍵となるのは、混乱の元凶が知恵の木の実だということ。神は、ぜんぶの物事の摂理を知ったうえで、個々の物事をプログラムしている。ところが、人間は、自分の知っている程度のことだけを足場に、あれが良い、これは悪い、と決めつけて、かってにガチャガチャといじくり廻す。

 人間からすれば悪とされるものも、神が構想した壮大な摂理のシンフォニーからすれば、ほんとうは善なる世界を自動的に作っていくために必要な一コマ。なのに、かってにそれをむりやり排除しようとして、かえってもっとひどい悪を自分たちで創り出してしまう。逆に、一見、人間からすれば良さそうなものでも、神の言葉や、律法だの聖書だので禁じられているのなら、それは、世界の摂理全体からすれば、なにかまずい問題を秘めている。にもかかわらず、知恵の木の実のように、それに手を出し、いよいよ世界をめちゃくちゃにする。

 つまり、全知全能でもない人間が神のように善悪を決めつけたがることこそ、人間の原罪、その存在の本質に根ざす罪。たしかに人間は神に似ている。だが、絶対に神ではないのだ。にもかかわらず、かってに思い上がって神のように判断し行動するせいで、本当の神が定めた本来の摂理を混乱させている。それで、よけい自分たちが労働や出産、ものを創ることに苦しむ。

 こんなの、しょせんひとつの神話、と言ってしまえばそれまで。しかし、およそ全知全能ではない、たかだかその時代の人間の中ではちょっと物知りという程度のやつらが、平気で世界をひっくり返すようなことを、良いとか悪いとか決めつけて、手を出す、人に勧める。そのせいで、世界中の多くの人々を地獄に落とし、後始末に何百年も人類全体を苦しめる。なんとか倫理委員会、のように、何人も集まったところで、しょせん人間は人間。ことの善悪以前に、そんな連中に、そんな大それた善悪を決めるほどの広大な知の基盤があるのかどうか。賢者と称された席に平気で座れるほど、愚か者はおるまい。

 ちまたにも、さして基盤となる知も無いくせに、神のように偉そうに人を裁きたがるやつらがいっぱいだ。いや、亡霊のように惨めな境遇にある空虚な者ほど、現実を生きている人々に取り付いて、その命を吸い取ることで、生きる感触を得ようとする。しかし、なにもしていない者は、人の善悪を裁いてみたところで、自分自身の空虚さを埋められるわけではない。それでまた、別の標的を求めるが、永遠にその繰り返し。

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 未来のこと、世界のことなど、わからない。人間の知には限りがある。そもそも、たとえ我々に自由があるとしても、我々は自分自身で自分自身を善だなどと自己証明することはできないのだ。むしろ、ただ自分の思う最善を尽くし、それでむしろ裁かれる身として、みずから神の前に誠実に進み出るのがせいぜい。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近書に『アマテラスの黄金』などがある。)

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