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会社とは何か:法人の存立根拠/純丘曜彰 教授博士

INSIGHT NOW! / 2017年8月30日 16時1分

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純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

はじめに:法人問題の背景

 現代の我々の社会において、法人企業、すなわち、「会社」は、あまりにありふれた存在となっている。そして、経営学においては、「会社」の存在を前提として、その財務や組織や戦略を問う。しかし、「会社」は、ほんとうに存在しているのか。存在しているとすれば、それは、いったいどのようにして存在しているのか。

 この問題は、別に新しい問題ではない。それどころか、むしろあまりに古く、それゆえ、その後、あまり問われなくなってしまった問題である。すなわち、この問題は、法哲学の分野において、十九世紀に、ドイツを中心としてさんざんに議論された。個人主義的なローマ法に依拠するサヴィニイらは、〈法人〉は、権利義務の帰属点として法律関係を処理するための法的技術であるにすぎない、として、《法人擬制説》を主張した。さらに、同じくローマ法を研究するイェーリンクなどに至っては、〈法人〉は、自然人の法律関係に完全に還元されうる、という《法人否認説》が主張される。

 これに対して、共同体主義的なゲルマン法の再生をもくろむギールケらは、有機性をもって集団と団体とを区別し、この有機的団体を実体として、《法人実在説》を提唱した。日本の現行法体系もまた、形式的には、《法人擬制説》に基づきつつも、内容的には、〈組合〉と〈社団〉とを区別し、〈社団〉を〈法人〉の基本構造とするという意味1で、この社団主義的な《法人実在説》に近い立場を採っていると理解することができる。

 この理論、たしかに整合的ではあるが、しかし、株主が社団を構成している、などというのは、株式が国際的な自由市場で活発に取引される今日において、あまりに実体と実感からかけ離れているのではないか。このような意味で考えるならば、この法人問題は、けっして古いものではない。というのも、この問題が法体系として整備された当時とは、あまりに社会状況が変わってしまっているからであり、それゆえ、今日の法人企業が、たしかに現行法体系に準則するとしても、むしろそのような過去の〈法人〉の形式に擬制しているだけであって、その本質と実体は、すでにまったく違うものに変貌している可能性があるからである。

 本章の目的は、議論の歴史的経緯を解明したり、日本の現行法体系を考察したりすることではない。我々の目的は、カント的な意味で、事実問題ではなく権利問題、歴史的経緯ではなく正当性根拠を問うことである。いかなる目的で、いかなる法律に準じてその法人が設立されたか、いかなる理由で、いかなる影響を受けてその法案が創設されたか、は、その法源に対する準則性において権利問題であるかのように考えられがちであるが、それは、あくまで準則に関する事実問題である。我々が問題にしたいのは、そうではなく、現代において、〈法人〉が存立しているとき、そこにいかなる理由があるのか、そもそも準則によって設立が認められる法律そのものの社会文化的正当性の根拠は何か、である。

 このような意味において、本章においては、あえて日本の制度と文化を問うた。というのも、アメリカなどでは、いまだパートナーシップによる企業経営の伝統が色濃く残っており、経済主体としての〈法人〉の自立性は、「法人資本主義」などと言われるように、おそらく日本の方がはるかに進んでいると考えられるからである。そして、本章の主張は、端的に言えば、次のようになる。すなわち、たしかに、現在の企業法人が、現行法体系に準則しているとしても、それは、現行法体系を援用するための手段として擬制にすぎないのではないか、ということである。もっと直接的に言えば、現在の企業法人は、法律上は〈社団法人〉であるが、実質上は〈財団法人〉なのではないか、ということである。

 もちろん、「株式会社」の《財団説》の主張そのものは、法学的にはかならずしも特別に新しいものではない。それゆえ、我々は、この点に関し、いまさらたんに、「株式会社」は財団であるべきである、などということを主張するのではない。そうではなく、なぜ実質的に〈財団法人〉である現代の「株式会社」が、これを〈社団法人〉とする日本の現行法体系内で法律的に存立しえてしまっているのか、という、この擬制を許容する社会文化の概念(具体的には、意思無能力者と表見代表者から類推の仕組)と法体系の形式の関係こそを問題にするのである。


1 現行法体系の構造

 株式会社としての企業の法哲学的、経営哲学的な構造を問うにあたって、専門の者には常識ではあろうが、本章の主張との対比を明確にするために、まず、現在の日本の法体系における企業の形式的な位置づけを、『民法』および『商法』に即して整理しておこう。この際、私的ながら斯界の標準と目される内閣法制局法令用語研究会による『法律用語辞典』(以下『辞典』)2を援用することによって、問題を明確にしていこう。ここにおいて、術語は引用符(「 」)で、概念はギュメ(〈 〉)で表記する。また、本文や説明など、判断留保を伴う引用も、引用符を用いる3。

 最初に我々が正しく把握しておかなければならないのが、「企業」の概念である。それは、『辞典』によれば、「一定の計画に従い継続的意図をもって経済活動を行う統一ある独立の経済単位」である。それゆえ、広義には、「企業」は、公益に関するものも含むと考えられる。また、「企業」は、後述する「社団」や「会社」である必要もなく、公益企業も含めて(『商法』2)、『商法』の全体が対象とする広義の「商人」としての行為主体の概念であると言うことができる。しかし、行為主体であっても、かならずしも権利主体とはかぎらないことに、あらかじめ注意しておかなければならない。たとえば、奴隷は、実質的な行為主体となりうるが、法律的な権利主体とはなりえない4。

 次に、「会社」について整理していこう。まず、「法人」は、『民法』33によって、法律に基づく(《規約主義》)とされ、「公益法人」については主務官庁による特許主義(『民法』34)、「営利法人」については『商法』による準則主義(『民法』35、『商法』52②5)が採られる。公益でも営利でもない親睦団体その他の「中間法人」は、特別法による準則主義を採っており、逆に言えば、特別法がないかぎり、法人格、権利主体としての資格を認められていない。現段階では、協同組合(『中小企業協同組合法』、『農業協同組合法』、『消費生活協同組合法』)、労働組合(『労働組合法』)や保険相互会社(『保険業法』)などが、それぞれの特別法によって『商法』54①(「会社ハ之ヲ法人トス」)の規定の準用などにより、法人と認められる。

 さて、このような「法人」は、また「財団法人」と「社団法人」とに区別することができる。「財団法人」は「財産を基礎とする法人」(『辞典』)、「社団法人」は「人の集団を本体とする法人」(『辞典』)である。「財団法人」は、定款相当事項を定めた「寄附行為」よって設立され、営利を目的とする「財団法人」について現行法体系に規定がないことから、準則主義の反対解釈によって、これは禁止されている、つまり、「財団法人」は『民法』上の公益を目的とするものに限定される、と理解することができる。一方、「社団法人」については、『民法』上の「公益法人」、『商法』上の「営利法人」、特別法上の「中間法人」など、多様なものが存在する。しかし、「社団法人」において、その本体である「人の集団」は、「組合」などと違って、「構成員の単純な集合」であってはならず、「構成員とは別個の存在として活動する」のであり、構成員に変更があっても社団は存続する(『辞典』)。というのも、「社団法人」は、設立の目的その他に関する「定款」を持ち、定款によって定まっている範囲内においてのみ、法人としての権利主体、行為主体たりうるからである(『民法』43)。

 そしてまた、「営利社団法人」は、『民法』35によって、「商事会社」として、『商法』52へ引き渡される。その種類は、『商法』上は、53により、「合名会社」「合資会社」「株式会社」の三種である。これらに加えて、別の『有限会社法』による「有限会社」や、『保険業法』による「相互会社」などにも、『商法』の規定が準用されることになる。ただし、『商法』における真正の「会社」は、基本的に「商行為ヲ為スヲ業トスル目的ヲ以テ設立シタル社団」(52①)とされる。6

 また、「会社」は、経営学的に、〈人的会社〉と〈物的会社〉とに概念的に分類される7。〈人的会社〉は、「会社の人的要素としての社員と会社との関係が密接で個人的結合が強い種類の会社」(『辞典』)であり、「社員は、会社の業務執行に参加し、一方、会社に対する債権者に対して直接無限の責任を負う」(同)とされる。これは、「合名会社」などが典型である。これに対し、〈物的会社〉は、「物的要素である会社財産に重点があって、社員の個性が重んぜられず、社員はただ金銭的関係においてのみ、会社と関係を持つ資本的結合の性格を有する種類の会社」(『辞典』)であるとされる。これは、「株式会社」などが典型である8。しかし、この区別をもっと端的に言うならば、「人的担保ににおいて社団の議決権を有するもの」が〈人的会社〉であり、「物的担保において社団の議決権を有するもの」が〈物的会社〉であろう。したがって、私財や職務を無限責任として一人一票で議決する社団は、一般に〈人的会社〉であり、出資財産を有限責任として出資比率で議決する社団は、一般に〈物的会社〉である、と考えることができる。


2 法人の文化論的根拠

 我々の現代社会は、〈個人〉と〈法人〉から成り立っている。すなわち、「基本的人権」関して、すべての個人(自然人)は、身分や能力を問わず、権利主体と認められる。これに加え、〈法人〉もまた、許可または準則によって登記されているかぎりにおいて、相続などの自然人に固有の問題を制限した上で、社会の成員として、基本的な権利を認められている。

 しかし、このような〈個人〉に一部の〈法人〉を加えるという《社会成員原理》は、かならずしも自明のものではない。社会は、何から構成されるか、社会の成員、社会主体は何か、という問題を、《社会成員原理》と言うが、〈個人〉をそれぞれの家族の従属的立場に位置づけ、社会を複数の〈家族〉から成り立つものとする《家族主義》のような《社会成員原理》も、多くの社会で見られる。さらには、〈個人〉や〈家族〉の社会主体性を認めない《村落主義》や《国家主義》や《宗教主義》のような《社会成員原理》も、世界歴史的にはありうる。

 また、逆に、《個人(自然人)主義》を越え、自然環境問題における人間の乱開発と対抗するために、「山のタヌキ」「野のウサギ」などという一般動物にまで、社会成員としての資格を発展拡大すべきである、というような《動物主義》を主張する者も実際に存在する。言うまでもなく、彼らは社会参加能力を持たない、などということは、その社会成員としての資格を否定する理由たりえない。というのも、自然人については、文字の書けない人間、それどころか、永続的に昏睡状態の人間、いわゆる「植物人間」9についても、社会の成員としての資格が認められ、完全な権利能力が与えられ、むしろ「後見人」によって法律的に保護が図られているからである。

 この《社会成員原理》の問題は、歴史的には、〈個人〉、すなわち、領民や奴隷、そして、女性や子供に社会の構成員としての資格があるのか、という図式で提起され、宗教や国家や村落や家族などの〈法人〉の代表者(祭司、国王、領主、家長)に対して、その他の一般個人が、代表権を制限し、参与権を請求する、という形式で、議論が発展拡大してきた。このため、その議論は、基本的に、その〈法人〉の存在を前提して、その代表権や参与権について争われたのであり、〈法人〉の存在そのものについては、ギールケを待つまでもなく、プラトーン・ホッブズ以来の《社団説》、すなわち、成員より上位の有機的結合団体、という以上の理論モデルを我々は持ち合わせていなかった。それゆえ、その後、これらの〈共同体(ゲマインシャフト)〉とは別に、企業のような〈機能体(ゲゼルシャフト)〉としての〈法人〉が創設されるにおいても、むしろこの唯一の理論モデルである《社団説》に依拠し擬制した、と理解することができる。つまり、企業法人は、本質的に〈社団〉であるのではなく、その創設に際して形式的に〈社団〉という理論モデルを利用した、ということである。

 なぜこのような奇妙な議論を提起するか、と言うと、政治学や法学というような場面を離れるならば、我々は、社会文化論的に、〈法人〉に関して、もっと別の理論モデルを持ちうるからである。すなわち、我々は、人間を含む〈共同体〉や〈機能体〉に限らず、社会文化論的に主体を措定する一般的な図式を普遍的に持っている。たとえば、雷という結果があれば、その原因として、遡及的に、雷を落とした主体として雷神を措定し、不幸という結果があれば、その原因として、遡及的に呪いをかけた主体として悪霊を措定する。これと同様に、我々は、所有者未詳の財産がある場合もまた、その権利の帰属点として、遡及的に、その財産を所有する権利主体を措定する。「山の主」「森の主」「川の主」「池の主」「地の主」などと呼ばれるものがそれである。もちろん、それらは、直接的な意味で実在するわけではないので、これらの主体に関して、論争が戦争になることもあるが、これらの論争や戦争の結果、それらは、その後、統一的な神話へと文化的に整理され、文化的な共通了解となる。

 国家などの〈共同体〉に関する《社団説》も、もとよりむしろ「王権主義の正当性の神話」「民主主義の正当性の神話」であり、「神話」にすぎないからこそ、容易にホッブズとロックで主旨を逆転することも可能なのである10。すなわち、国家もまた、すでに存在してしまっている国土や国民という所有者未詳の財産を所有する権利主体として、遡及的に措定されたものであると考えることができる11。

 さて、話を元に戻そう。財産がすでに実在するとき、我々は、その所有者を、登記という法的に統一された「神話体系」に整理している。それゆえ、たとえば、土地があれば、登記簿を調べ、その所有者を知る。これこそ、我々が実際にやっていることである。そして、ここにおいて、この所有者は、しょせん紙の上の記録であり、自然人であるか、法人であるか、を、問わない。自然人であっても、生没未詳かもしれない。しかし、いずれにせよ、すでに解散しているが清算未了の「事実上の法人」などのように、現実に財産がある以上、その所有者は、まさにそのように財産があることにおいて、文化的にはもちろん、法律的にも存立してしまう。


3 経済行為能力

 法律において「行為能力」は、法律行為を行う法律上の資格を意味するが、我々は、これを離れて、実質上の〈行為能力〉を問題としよう。たとえば、無免許ながら自分の庭園で自動車の運転をしている者は、運転に関して法律上の「行為能力」はないが、実質上の〈行為能力〉はある、ということになる。この区別は、法律一般の原理としても基本となる。というのも、実質上の〈行為能力〉がない物事については、法律上は、その禁止も義務もできないからである。逆に言えば、実質上の〈行為能力〉がある場合にのみ、法律上の「行為能力」を否定することもできる。

 次に、我々は、〈行動行為〉と〈表示行為〉と〈意思行為〉を区別しなければならない。たとえば、走る、食事する、などは、〈行動行為〉であるが、買う、約束する、などは、〈表示行為〉、疑う、希望する、などは、〈意思行為〉である。である。すなわち、〈行動行為〉は、身体的な行動を必要とするが、〈表示行為〉は、いかなる方法であれ意思表示さえされればよく、〈意思行為〉は、意思のみあれば、その表示さえも必要としない。そして、イエスの厳格律法でもないかぎり、法律は、基本的に〈行動行為〉と〈表示行為〉のみを問う12。

 さて、ここにおいて、所有する、とは、いかなる行為であろうか。しかし、これは、上述のいずれの行為カテゴリーにも当てはまらない。すなわち、所有することに、通常は、握持や監視などの行動はもちろん、占有の表示も意思も直接的には必要ではない(『辞典』)。ただ財産が所有者に帰属するのであり、その所有者が何か行為するのではなく、その所有者以外が、所有者が所有するとされている財産に関わる行為をする際に特別な配慮や手続を必要とする、つまり、その所有者ではなく、その所有者以外がその財産に関して特別な配慮や手続の義務を負う、ということである。むしろ、所有者は、その所有する財産に関して、消費も破棄も放置も、とくに他者の権利を侵害しないかぎり、基本的には自由である。この意味で、所有は、じつは、実質的な行為概念ではなく、本質的には、社会的な権利概念である、と言うことができる。

 もちろん一般には、財産は、行動行為や意思行為によって獲得され、消費・破棄・遺失するまで所有していることになるが、静的な《所有推移律》(AがBを所有し、BがCを所有するとき、AはCを所有する)と、動的な《結果所有律》(AがBを結果するとき、AはBを所有する)によって、《結果所有推移律》(AがBを所有し、BがCを結果して所有するとき、AはCを所有する)が得られる以上、まったく行為なしに財産を獲得することもありうる。たとえば、山の主は、何もせずして、山の木を獲得し所有する。

 また、我々は、売る、買う、貸す、借りる、などの経済行為が、基本的に〈行動行為〉ではなく、〈表示行為〉であることにも着目しなければならない。すなわち、なんらかの方法で意思表示することができ、かつ、財産や対価の引き渡しという経済的義務を果たすならば、それ以上の身体的な行動は必要ではない。また、契約する、雇用する、などの経済周辺行為についても、同様である。そして、財産を所有する場合、これを担保に貨幣を借り、対価に当てることができる。それゆえ、いかなる経緯で獲得したのであれ、財産を所有する者は、それだけで形式的に経済行為の〈行為能力〉を持つ、ということになる。この〈行為能力〉について、〈意思能力〉は問題ではない。というのも、〈意思能力〉がない場合、この〈行為能力〉が発動しないだけだからである。


4 意思無能力者と後見制度

 いわゆる「植物人間」、法律的に言うと、心神喪失の常況にある「意思無能力者」は、「禁治産者」(『民法』7)として、直接には「行為無能力者」(『民法』9)とされるとともに、「後見人」(『民法』8)を選任して、療養看護(『民法』858①)、財産管理(『民法』859①)の事務に当たらせる。この際、「後見人」は、その財産に関する法律行為について被後見人を「代表」する。「代表」は、「代理」「使者」とは区別される。「使者」は、本人の意思を第三者に伝達するにすぎないのに対し、「代理」は、自分の権限内において、自分の意思によって、その法律効果が本人に帰属する意思表示を第三者に行ったり、第三者から受けたりすること(『民法』99)であるが、「代表」は、その行為がそのまま本人の行為とされること(『辞典』)を意味する。

 くわえて、「後見人」の事務は、「後見監督人」によって監督される。「監督」は、一般には、被監督者の行為の合法性や合目的性を監視し調査するだけの「監査」より強く、大臣による機関の監督、主務官庁の公益法人の監督など、必要に応じて被監督者に対し直接に指示や命令をすることを含む(『辞典』)。ただし、「後見監督人」の場合、「監査」は行う(『民法』863)が、急迫の事情がある場合以外(『民法』851)は、家庭裁判所に後見人に対する命令を請求する(『民法』863②)のであり、それゆえ、その職務は、事実上、むしろ「監査」に近い。そして、この点に関し、後見人に対する命令権において、むしろ家庭裁判所が、司法機関でありながら、後見人を監督する事実上の上位の行政機関となっている。

 「植物人間」は、直接には「行為無能力者」であっても、このような「後見人」の代表によって、事実上の法律的な「行為能力」を回復する。むしろ問題なのは、この「植物人間」が〈行為能力〉、とくに、経済行為に関する〈行為能力〉を持つかどうか、である。というのも、「後見人」の事務は、療養看護も含め、実際は財産管理を中心とするものであり、管理すべき財産がないならば、財産を管理する事務もないからである。

 逆に、いかなる経緯であれ、すでに財産が存在し、その直接の所有者に意思能力がない場合、我々は、社会的にその所有者に「後見人」を必要とする。というのも、先述のように、所有は、所有者本人よりも、その所有者以外が、所有者が所有するとされている財産に関わる行為をする際に特別な配慮や手続を必要とする、つまり、その所有者以外がその財産に関して特別な配慮や手続の義務を負うからであり、これらの配慮や手続において、その所有者の承認などの表示行為が必要とされるからである。たとえば、山の木の伐採に関し、これを所有する山の主が実際の意思能力を持たない以上、山の主を代表する後見人の祭司の承認を必要とする。そして、これは、山の主が祭司に憑依してのことであるから、祭司の承認ではなく、山の主そのものの承認とみなすことができる。


5 意思無能力者としての株式会社

 さて、「財団法人」を鑑みるに、それはまさに、このような財産を所有する「意思無能力者」に対する後見制度と平行する13。そして、この平行関係は、なぜかむしろ「社団法人」の「株式会社」においてさらに著しいのである。

 「株式会社」は、たしかに、その設立において「発起人」を必要とする(『商法』165)。この「発起人」は、同一の定款に賛同し署名することにおいて合同行為をなす集団と認めることができる。ここにおいて重要なのは、「発起人」が結社し、合議によって定款を作成するのではない、ということである。すなわち、その定款に賛同しない者は、そもそも「発起人」とはならない。それゆえ、この「発起人」の集団は、合同行為をなすことにおいて、単なる集合ではないが、個々の成員と別の意思を持つ社団でもない。むしろまさに合同行為そのものであって、この行為から遡及的にこの行為そのものの主体として、いわば〈プロト株式会社〉が措定される。そして、個々の「発起人」は、定款に関して、まさにこの〈プロト株式会社〉と同一の意思を持つという意味で、合同行為の範囲内において〈プロト株式会社〉を代表する。そして、彼らは、〈プロト株式会社〉を代表して、合同行為として株式を発行する。

 しかし、この次の段階において、「発起人」はまた、それぞれに株式を引き受ける。この株式引受は、株式発行と違い、もはや共同の合同行為ではなく個別の契約行為であり、それゆえ、これは、「発起人」としてではなく、すでに「株主」として行われる。つまり、合同行為である〈プロト株式会社〉から、それぞれが「株主」として株式を買い取るのである。ここにおいて、〈プロト株式会社〉は、配当契約などに関して利害の相反性を持つ「株主」とはすでに独立の存在であり、また、以後の「発起人」の集団は、事実上の「株主総会」となる。

 株式引受による出資は、株式、すなわち、「株主」としての権利(自益権(配当受益権など)や共益権(総会議決権など))と対価の売買であるが、これによって、出資された財産は、その後、「株式会社」自身のものとなる。というより、個々の「株主」から出資された財産を一体に結合したものとして、〈財団〉として「株式会社」が措定される。この〈財団〉としての「株式会社」は、その所有する財産を一括担保(『工場抵当法』11等参照)とすることによって、実質的な〈経済行為能力〉を持つ14。それゆえ、これを法人として、その法律的な「経済行為能力」(権利能力)を付与することが適当である。

 ところが、「株式会社」そのものは、単なる〈財団〉であり、直接的には意思能力を持たない。それゆえ、「株式会社」の親にも相当する「株主総会」は、みずからこれを代表することもできるが、経営の高度の専門性に鑑み、バーリ&ミーンズが言う「所有と経営の分離」として、いわば親権を辞し、代わって「株式会社」を後見させしめるために、「取締役」を選出する。すなわち、「株主総会」は、事実上の親権者として、「株式会社」を代表して、「取締役」を委任する。したがって、ここにおいて、「取締役」は、代表者である「株主総会」ではなく、本人である「株式会社」そのものから委任される、ということになる。

 「取締役」は、三人以上であることが規定されており(『商法』255)、彼らは、「取締役会」を結社する。そして、この「取締役会」が、「株式会社」の業務執行を決する(『商法』260)。すなわち、「株式会社」の〈意思行為〉を代表するのは、個々の「取締役」ではなく、あくまで「取締役会」である。その議決は、一人一議決権の原則を持つ(『商法』260ノ2)ことから、これは〈人的会社〉とみなすことができる。そして、実際の経済行為などにおいては、その〈表示行為〉が必要となる。それゆえ、「取締役会」において、「取締役」の中から互選で「代表取締役」が選出される。この「代表取締役」は、あくまで「株式会社」の〈表示行為〉を代表するのみであって、その〈表示行為〉は、「取締役会」が代表する「株式会社」の〈意思行為〉に準拠する。この意味において、「代表取締役」は、事実上、「取締役会」の監督に服さなければならない15。

 「株式会社」には、「監査役」も存在するが、これは、「株式会社」の後見人である「取締役会」のまさに「監査」のみを行い、「株主総会」に報告するだけで、「取締役会」に対する直接の「監督」権限、すなわち直接に指示や命令をする権限を持たない16。そして、むしろこの意味で、「取締役会」の経営は、その後、「株主総会」のチェックを受ける。ここにおいて、「株主総会」は、立法機関というより、家庭裁判所に相当する機能、すなわち法律や定款や決議に基づく司法機関であるだけでなく、後見を〈監督〉する上位行政機関としての役割をも果たしていることになる17。すなわち、「株主総会」は、個々の「取締役」の「総会決議遵守義務」(『商法』254ノ3)によって、その〈人的会社〉である「取締役会」を間接的に〈監督〉するとともに、個々の「株主」もまた、「代表訴訟権」(『商法』267)や「差止請求権」(『商法』272)によって、個々の「取締役」を〈監督〉する18。


6 株式会社の財団性

 通常は「代表」という制度によって非常に見えにくくなっているが、平行する「意思無能力者」に関する後見制度を参考に、このように「株式会社」の本来の、つまり、「代表」によって権利主体や行為能力が補完される以前の構図を分析してみると、後見監督人たる「株主総会」は〈物的会社〉として、後見人たる「取締役会」は〈人的会社〉として、たしかに〈社団〉であるが、「株式会社」そのものは、成員(社員)を持たず、〈社団〉ではない、ということがあきらかになる。むしろ、「株式会社」の設立からして、資本の規定があり、また、株式総数を定款に記載する「資本確定の原則」、これを任意に変更しない「資本不変の原則」、そして、相応の財産(資産)を保持する「資本維持の原則」が認められることから、「株式会社」の本質は、個々の財産を一括する〈財団〉であり、それゆえ、「株式会社」は、現行法体系において「社団法人」に擬制しているとはいえ、法哲学的には〈財団法人〉である、と言えるのではないか。

 このことは、以下のような法制にによっても補強される。すなわち、第一に、『商法』94の規定にもかかわらず、法人格の濫用でないかぎり、特定の事業について有限責任の利益を享受する場合など、株主を一人しか持たない「一人会社」のような、「株主総会」としても〈社団〉とは呼べないようなものもまた、通説上、認められる。というのも、「株式会社」において、「株主総会」と「取締役会」とで、「所有と経営の分離」が行われており、上述のように、機能的には、「株主総会」は、「株式会社」の後見監督人であり、一般の「意思無能力者」の場合の「後見監督人」同様、「取締役会」に対して監督という事務を行いうるのであれば、複数の成員から構成される〈社団〉であることに必然的な理由を持たないからである。そして、実際、「株主」は、「株主総会」によることなく、直接に「代表訴訟権」や「差止請求権」などの監督権を持っている。この意味において、「株式会社」の「株主総会」の〈社団〉としての性格も、けっして本質的ではないことがわかる。そしてまた、ここにおいて、問題となっているのは、「株主総会」や「取締役会」としての合議による組織運営ではなく、あくまで「株式会社」そのものの資産運営でしかない。つまり、「株式会社」において、「一人会社」のようなものが認容されうるのも、「取締役会」の介在によって、「一人株主」が組織の政治的な共益権の独占ではなく、事業の経済的な自益権の安全のみを目的としうるからである。

 第二に、そもそも「法人」一般において、債務完済の〈行為能力〉がない場合、裁判所から「破産」が命じられ(『民法』70①)、「破産」は、ただちに「解散」の事由となる(『民法』68)。これは、「財団法人」の場合は当然であろうが、「社団法人」の場合には奇妙と言わざるをえない。なぜなら、「社団法人」は、たとえ経済行為の〈行為能力〉がないとしても、〈社団〉として実体を持ち、経済行為能力以外の方法によって、「社団法人」としての目的の活動を遂行することが可能であるからである19。そして、債務完済の〈行為能力〉がないとして「破産」に至ったとしても、自然人であれば、その後の経済行為の「行為能力」に関して制限されるのみで、存在そのものまで否定される、すなわち、死刑になるわけではない。にもかかわらず、〈法人〉が一般に「解散」させられるのは、〈財団〉か〈社団〉かを問わず、もとよりその法人格が、事実上、経済行為を行うための便宜に限定され、経済行為を行わない、もしくは、支払不能や債務超過などにより経済行為の〈行為能力〉を持たない場合、その法人格そのものは、その目的たる活動の有無の如何にかかわらず、その取得も保持も、法律的な意味を持たない、したがって、〈法人〉そのものが存在しない、とみなされるからではないのだろうか。

 さらに、第三に、「破産」において、その所有財産は、一般に、本人とは別の「破産財団」とみなされる。「法人」の「破産」の場合、元来の「法人」が「事実上の法人」となり(『破産法』4)、以前と同様に後者の「破産財団」を所有するが、この「事実上の法人」は、すでに経済行為に関する法律的な「行為能力」を持たないために、「破産管財人」が後見して代表するということになる。このように破産者の財産を〈財団〉とするのは、もとより債務超過の虞がある状況で、財産が個別に処分されて一部の債権者のみに不利益が集中することを予防し、現有財産を公正に「配当」するためであるが、「破産」の以前においても、「法人」、とくに「株式会社」は、この「破産財団」と同等の〈公正配当機能〉を持つものではないのだろうか。すなわち、ある企業において、多様な協力者が、それぞれの協力を事由として、営業の結果である利益に対し随時に自益権を主張し行使するとき、その配分の公正は期待しがたい。それゆえ、企業は、これらに随時個別に利益を還元するのではなく、「株式会社」という「資産財団」としていったんプーリング[pooling]を行い、その上で、労働賃金や借入金利や株主配当としての制度に基づき、公正な「配当」を行うのではないか。


7 雇用と従業員

 法学と違い、経営学や社会常識では、もとより「株主」を、金融機関などと同様の企業の外部の利害関係者とみなし、むしろ、〈企業法人〉を、「従業員」を社員とする〈社団〉、有機的な〈組織〉と見る傾向がある。しかし、このような理解は、あきらかに現行法体系の形式と相反する。だが、「商法の進歩的傾向」という意味からすれば、これは、だからといって、経営学や社会常識が間違っている、として片づけるべき問題ではなく、むしろ、追って法体系の整備が求められるべき問題であろう。しかし、そのためにも、経営学や社会常識における〈企業法人〉の法哲学構造をあらかじめ解明する必要がある。

 まず最初に、「従業員」が「株式会社」に「雇用」される、という点については、法学も経営学や社会常識も相違はない。問題は、この「雇用」という概念によって、「従業員」は、「株式会社」の成員、いわゆる「社員」になった、というように、法学の理論に反して、経営学や社会常識で考えられることである。とすると、我々は、この「雇用」という概念の持つ法哲学的意味を再考する必要がある。

 「雇用(雇傭)」は、『民法』623の規定によれば、単純な労務契約にすぎない。すなわち、一方が労務に服することを約束し、他方が報酬を与えることを約束する一般的な諾成有償双務契約の一種にすぎない。これは、同じ諾成有償双務契約であっても、事務処理に関する「委任」や、仕事完成に関する「請負」と違い、被雇用者は、使用者の指揮に従い、裁量の余地が限られる、とされる(『辞典』)。そして、以下詳細は、「労働」として労働関連の法律によって規定されることになる。つまり、『民法』の基本原理は、使用者と被雇用者(労働者)とを対等の立場とみなすことにあり、労働関連の法律は、その不平等の現実に対して、『民法』の基本原理が成り立つように、これを対等のものに是正しようとする側面を強く持つが、いずれにせよ、ここに〈社団〉と成員という図式に当てはめうるものはない。

 このような「雇用」に関する法哲学的構造は、いかに現行法体系とはいえ、現代の我々の社会常識からあまりに懸け離れている。(20) 現在、諸般の問題は、これらの概念に擬制して処理されているが、このように現実からずれた法体系を放置することは、会社にとっても、被雇用者にとっても、法的権利義務関係が不明確となり、むしろ問題や紛争の元凶となりかねない。

 現代において、社会通念上、企業法人内の「従業員」に関し、「正社員」「パート・アルバイト」と「外部サーヴィス業者」の三つを区別することは、むしろ常識である。そして、「雇用」は、「正社員」と「アルバイト」の二つに限られ、「外部業者」については、恒常的に使用するにしても「雇用」ではなく、「委託」と呼ばれる。「外部サーヴィス業者」については、清掃などの特定業務をまとめて〈請負〉し、その業者の〈監督〉下において、その業者の従業員が実際の労務に当たる場合と、その業者の従業員のみを会社に派遣し、会社の〈監督〉下において、データ処理などの実際の業務に当たる場合とがあり、後者は一般に「派遣社員」と呼ばれる。

 「正社員」の法哲学的概念は、立法ではなく司法において、「解雇権濫用法理」によって確立された、と言うことができる。すなわち、『民法』627①の規定では、とくに期間を定めていなかった場合、使用者も被雇用者もいつでも自由に「雇用」を解約することができることになっている。『労働基準法』20においても、使用者は、三十日前に予告をすれば、いつでも自由に被雇用者を解雇することができることになっている。そして、このような「雇用」の恣意性に対し、戦後の労使紛争、および、第一次石油ショック不況の結果、判例において、使用者の解雇権を制約する基準が成立してきた。すなわち、解雇にあたって、使用者は、①解雇実施に至らざるを得ない高度の必要性、②残業規制、新規採用や中途採用の停止、配転、出向、一時帰休、希望退職者の募集等の解雇回避努力義務、③労働組合や労働者に対する説明・協議義務、④解雇基準・人選の客観性、という四点について、充分な正当性を必要とする、とされた。そして、このような使用者の解雇回避最大努力義務によって、今日の「正社員」の恒常永続的な「雇用」の慣行が確立されたのである。

 しかしながら、最初から使用者と被雇用者の合意で時間や場所を限定する「パート・アルバイト」は、解雇回避のための配転や出向ができないことを理由に、この基準の恩恵から外され、「正社員」に関して硬直してしまった人事に対し、いわば準社員、劣等社員として、低賃金の補助職に甘んじさせしめられただけでなく、もっぱら景気による雇用調整の対象とされることになった。これは、日本産業社会にある、景気対策のための企業間の[本社>下請]の二重構造の賃金待遇格差が、企業内に持ち込まれたものと理解することもできる。しかし、93年、『短時間労働者の雇用管理の改善等に関する法律』、通称、「パート労働法」が、罰則規定がないとはいえ、成立し、また、バブル後の極度の不景気による「リストラ」が進んだため、このような企業内の身分制は、明確に外化され、このことが、先述の「外部サーヴィス業者」を増大させる要因ともなっている。


8 従業員組織に関する法人性問題

 恒常永続的な「正社員」という概念が、経営的に企業法人の中核概念になっていった理由は、つまり、「従業員」を「正社員」として恒常永続的に「雇用」しなければならなくなった理由は、歴史的な経営構造そのものの変化にもある。

 すなわち、産業革命後の資本主義の初期においては、企業には、個人の〈経営者〉と複数の〈労働者〉がいるだけであったが、その後、およそ十九世紀半ば以降、企業の規模が拡大し、〈労働者〉が増大するにつれ、〈経営者〉は、自分で〈労働者〉を監督管理しきれなくなり、自分を代理して労働者を監督管理する者を必要とするようになって、ここに、〈中間管理職〉、いわゆる、「ミドルクラス(中産階級)」の「ホワイトカラー」が出現した21。なお、「監督」は、先述のように、監査し命令すること、「管理」は、その性質を変更しない範囲で利用することを意味する(『辞典』)。そして、十九世紀末から二十世紀半ばまでにかけて、この「ホワィトカラー」の〈中間管理職〉と「ブルーカラー」の〈労働者〉の間で、激しい労使対立が繰り広げられることになった22。

 しかしながら、二十世紀後半に至ると、機械による自動生産や事業のサーヴィス化が著しく進展し、〈労働者〉も、〈中間管理職〉と同様の「正社員」として身分が安定する一方、劣等の「パート・アルバイト」も出現し、これらの結果、〈労働者〉の仕事は、機械やパート・アルバイトや顧客の管理へとシフトし、実際上も「正社員」としての恒常永続的な勤務が要請されるようになっていった。一方、機械化されない残余の断片化可能な機械的反復作業は、「マニュアル」化し、〈労働者〉である「正社員」の管理の下、低賃金調整可能な「パート・アルバイト」によって行われることになった。

 このような歴史的経緯からわかるように、「従業員」が「正社員」として企業法人に実体化していく理由は、「取締役会」以下の連鎖カスケード的な監督権・管理権の代理委譲と、現場の仕事の管理化であろう。それゆえ、組織の末端であっても、パート・アルバイトや顧客と接するにあたって、すくなくとも「正社員」であることにおいて、「株式会社」の「代理」の「代理」の「代理」となっている。このために、善意の第三者たるパート・アルバイトや顧客が、「正社員」と契約や売買などの法律行為を行う場合、たとえそれが組織の末端の「平社員」であれ、「正社員」である以上、彼らは、その「正社員」個人と交渉しているのではなく、代理とはいえ、実質的には、その「正社員」が所属する「株式会社」そのものと交渉しているのであり、この結果、その「正社員」は、まさに「正社員」であることにおいて、「代表取締役」と同様の「表見代表」(『商法』262参照)、すなわち、事実上の「代表」としての責任を持ってしまう。そして、「株式会社」もまた、このような個人を「正社員」として雇用したことにおいて、その「正社員」の「表見代表」としての行為に対し、責任を持たなければならない。これは、使用者の被雇用者の言動に対する「監督義務」などのような、間接的な道義上の責任などではなく、直接的な法律上の責任である。

 このように、社会通念上、そして、法律上も、「表見代表」の責任が及ぶことにおいて、「正社員」は、まさに「代表」として、雇用される「株式会社」と一体性を持つ。それゆえ、これは、集団が独立の人格として成員から区別される〈社団〉ではない。つまり、もう一度、全体を整理するならば、通常、経営学などで言われているように、企業法人は、有機的な〈組織〉であるから、という理由によって直接に、従業員を含む統一人格性が認められるのではなく、ただ、有機的な〈組織〉であることによって、すなわち、「取締役会」以下の連鎖カスケード的な監督権・管理権の委譲によって、その末端に至るまで代理権が行き渡っていると、善意の第三者に推定させてしまうことによって、ここに、「表見代表」が成立し、このために、一般的に、「正社員」の一体性が、社会通念上、成り立っている、ということになってしまうのである。

 しかしながら、この一体性は、法律的責任として発生するのであって、法律行為以前にある一体感とは区別されなければならない。すなわち、「正社員」であることが「表見代表」の権利と責任を派生してしまうことから、「正社員」が、事前に、自分が雇用される「株式会社」に対して一体感を持つとしても、この一体感に実体性はない。というのも、そもそも「取締役会」の決議としての意思を別として、「株式会社」は、もとより意思能力を欠いており、ましてや、「従業員」においては、たとえ「正社員」であろうと、「従業員」全体として意思の統一が図られる制度が、「組合」よりもなお欠けているからである。「従業員」は、まさに「組織」であり、連鎖的に構成されているものであって、「取締役会」とさえも、一般の「従業員」は直接に意思疎通しているわけではない。それゆえ、個々の「正社員」は、一方的な「取締役会」の発表や上司からの命令や伝聞によって、「取締役会」の意思、したがって、それに代表される「株式会社」の意思を、個別に推量することはできるが、これは一般の他者の意思を推量することに等しい。ここから、「株式会社」は、やはり「従業員」の「組織」とも独立の人格であり、また、「従業員」は、監督権・管理権の代理委譲によって連鎖する組織を構成するとはいえ、やはり個別に「株式会社」の意思を推量するにすぎず、ここに〈社団〉としての法人格を認めるべき「従業員」の総体としての意思能力も行為能力も存在しない23。


おわりに

 現代において、すべての自然人に基本的人権が認められるほどに、社会の成員としての資格が拡大した結果、先進諸国では、中間的な〈村落〉や〈家族〉などの社会主体は極端に〈意義〉を縮小し、〈個人〉が《社会成員原理》となるに至った。その一方、上述の議論のように、経済活動の〈意義〉が増大し、経済行為能力のみを事由として、〈企業〉の存在が巨大化した。ここで詳述はできないが、〈国家〉もまた、すでに実在してしまっている権利能力や行為能力から逆に遡及的に措定される広義の〈財団法人〉であって、国民の〈社団〉としての政府など、「民主主義の神話」にすぎないのであろう。

 〈法人〉が〈社団〉から発生する、という《契約説》は、本論で検討したように、たしかに、「株式会社」の発生の事実問題のメカニズムとしては、「発起人」の合同行為という意味で、それほど外れていない。というより、この法律構造そのものが、《契約説》の影響下で確立された、と、理解する方が正しいのであろう。しかしながら、このようにして設立された「株式会社」そのものは、それが独立の法人となりうるという権利問題から言えば、これもまた本論で考察したように、その設立の過程における「発起人」の合同行為とも、株式売買としてそれと最初の契約を行う株主たちからなる「株主総会」とも独立の存在であり、その設立から解散まで、および、その機能において、本質的に〈財団法人〉である、と思われる。そして、この「株式会社」という〈財団法人〉は、その財産の一括所有によって、実質的な経済行為能力を持ちながら、意思能力を欠くために、一般の意思無能力者と同様に、後見人として意思を代表する「取締役会」、意思の表示を代表する「代表取締役」を設定され、後見監督人として「株主総会」が機能する。

 「株式会社」は、その最初の「コンメンダ」からして、〈財団〉、ファンド(投資信託)であるにもかかわらず、これを「合名会社」のような私的な人的会社の延長として法体系を確立してしまったことは、今日のように、「社団法人」に擬制する「財団法人」というような、社会通念からも逸脱する、わかりにくい制度を生み、「株式会社」の社員である「資本家」と、「株式会社」から疎外された「労働者」の対立というような、社会そのものを分断する無用の混乱も引き起こしてしまった。

 「株式会社」の典型とされる十九世紀アメリカの鉄道会社にしても、公共的大事業のための巨大資本の必要性から広く財産の寄附を募ったのが原型であり、純粋に営利だけを目的とするのであれば、株式そのものによる利益を目的とするのでもないかぎり、税制上の理由などから「株式会社」に擬制するだけの日本のオーナー企業のように、一般市場で株式を公開することは、もとよりばかげている。そもそも、今日、事業に公共性がないならば、大企業を維持するほどの収益性もない。そして、実際、金融保険や交通機関、流通製造、すべての分野において大企業の安定営業の公共責任が求められる。

 一方、行政の補完として位置づけられていたはずの公益法人の私的な経営姿勢が問われる。「社団法人」の定款は、憲法を、「財団法人」の寄附行為における定款相当事項は、遺言をモデルとしたものであろうが、しかし、いかに公益法人であれ、政府や官庁も含め、いったん法人として創設されてしまった以上、その定款または寄附行為による目的を追求するために、その経営者(理事、取締役)や従業員とともに、まさしく独立の人格として、みずからの私的な幸福、すなわち、権力の拡大、財産の増大、地位の向上などをめざすのは、むしろ自明であり、公共の福祉に反しない限り、法人もまた国民として、このことはある意味で『憲法』13の「幸福追求権」で保障されざるをえない。

 しかし、私企業にしろ公企業にしろ、その財団としての強大な経済行為能力は、けっして自己目的であってよいものではあるまい。擬制的にせよ、その存在を社会が容認し、法人としての主体性を期待する以上、その存在意義として、そこに社会的な秩序の再構築という〈正義〉のサーヴィスが求められるのではないか。そもそも、なんらかの〈正義〉としての経営理念がなければ、「会社」は、「会社」として存立しえないのではないか。




1 財団法人などの細々した議論は、本論に譲る。
2 内閣法制局法令用語研究会編:『法律用語辞典』、有斐閣、1993
3 術語と概念の区別は、本章では充分に注意を払われなければならない。というのも、本章の主張は、「株式会社」は、法律上は「社団法人」であるが、実質上は〈財団法人〉である、というものだからである。
4 [実質的/法律的]という対立概念は、擬制の問題を扱うために、本章の基本図式となる。この区別は、行為、能力、主体、などにも用いられる。
5 個々の会社の存立に関しては、通説上、準則主義として57条が挙げられるが、「営利法人」という概念そのものの法体系内における存立根拠としては、52条②が妥当であろう。
6 「商行為」は、『商法』において、「絶対的商行為」(501)、「営業的商行為」(502)、「附属的商行為」(503)の三つに分類されている。「絶対的商行為」は、単独の行為に対して形式的に規定されうるものであり、差益という目的、転売という立場、取引所という場所、商業証券という対象、のいずれかに関わるものがこれに相当する。これに対して、「営業的商行為」は、単独の行為としてではなく、賃貸、製造、運搬など、継続反復的な「営業」としてこれをなすときにのみ、「商行為」とみなされるものである。最後の「附属的商行為」は、「営業ノ為ニスル行為」(503①)であり、「商人」の行為は、すべてこの「営業ノ為ニスル行為」であると推定される(503②)。
7 先述のように、「会社」は、法律上の定義、〈会社〉は理論上の概念を意味する。
8 これらにおいて、「社員」というのは、言うまでもなく、雇用された従業員などではなく、「社団法人」を構成する成員、たとえば、「株式会社」であれば、株主のことである。
9 特定の個人を「植物人間」と表現することには、おおいに問題があると認識されなければならないが、ここではあくまで理論考察上の術語として、この言葉を一般概念として利用することにする。
10 ホッブズにせよ、ロックにせよ、契約論は、より正確に言えば、事実問題に関する虚構の神話なのではなく、権利問題を問うための、あくまでデカルト的な方法論的思考実験である。この方法は、近年、ロウルズが再興し、おおい注目を集めている。ただし、ホッブズやロックの古い契約論が、法人設立のための単純な同時的な「合同行為」であるのに対し、ロウルズの契約論は、補填を予約する保険として時間的な「相互行為」となっていることに注意する必要がある。本章においても、後述するように、「株式会社」に関して、現行法体系が要件とする「合同行為」としての設立よりも、利益の公正な分配のための時間的プーリング機能を重視する。
11 この言及において、我々は、すでに《国家法人説》をも射程に捉えている。本章で詳述することはできないが、政府も官庁も、もとより広義の〈財団法人〉であり、将来的には、市場維持機能を除いて、一般の民間企業のサーヴィスの公共性とシームレスなものになっていくのではないだろうか。
12 イエスの厳格律法など、宗教は、しばしば意思行為を問題にする。たとえば、十戒に「殺すなかれ」とあるのに対して、イエスは、「殺そうと思うなかれ」、さらには、「敵を愛せ」という意思を問う。そして、このように、意思行為への規範介入の有無が、宗教と法律とを区別するものとなる、としばしば言われる。
13 もちろん、「後見人」が一人に限定される(『民法』843)のに対して、「理事」は一人に限定されない(『民法』52)などの相違はある。しかし、我々が問題としているのは、表層的な形式ではなく、ここにある法哲学的な理論構造の同一性である。
14 「株式会社」の〈経済行為能力〉は、この一括担保化により、個々の「株主」が出資する財産を担保とする〈経済行為能力〉の総和よりも大きい。これは、工場において、個々の機械の担保価値より、一体の工場としての担保価値の方が実質的に大きいことから、『工場抵当法』11において、法律的にもこれを「工場財団」として認めていることと、法哲学的精神として平行する。そして、この点にも、「株式会社」の〈存在意義〉があると言えるだろう。
15 もちろん、日本の「株式会社」の実際からすれば、「代表取締役」の一人である「社長」が「株主総会」の議事進行を決定する議長を務める慣行において、「社長」によって議案として「株主総会」に提起されないかぎり、「取締役」として「株主総会」に選出されることもない。また、逆に、本人の意向とかかわりなく「取締役」辞任の議案が提起されてしまった場合、「株主総会」によって承認されてしまう危険性が高い。このために、「取締役はもちろん、「監査役」も、「社長」、または、「社長」に圧力をかけうる他の「代表取締役」(会長、副社長、専務など)のイエスマンとなり、これらの「代表取締役」は、以下、カスケード状の人事権の連鎖によって、従業員の末端まで、それぞれの派閥を形成する。それゆえ、日本の「株式会社」では、実際の重要事項は、公式の「取締役会」ではなく、それぞれの派閥の長である一部の「代表取締役」たちによる非公式の「最高幹部会」において、事前に調整され決定されるのが一般的である。
16 このような〈監督〉権限の欠如から、「監査役」は、複数存在するとしても、合議的な〈社団〉を構成しえない。
17 そもそも、一般に、商人はその商行為に関して裁判所の命令を遵守する義務を負う意味において、裁判所は、単なる司法機関としてではなく、事実上、社会的に、商人一般の上位行政監督機関としても機能しているということができる。したがって、我々は、ここに、[家庭裁判所>後見監督人>後見人>意思無能力者]という行政図式と平行して、[裁判所>株主総会>取締役会>株式会社]という行政図式を認めることができる。そして、これは、[主務官庁>(社員総会(「社団」のみ)>)理事会>公益法人]という行政図式に対応する。
18 たしかに、「株主総会」は、本人である「株式会社」と配当契約に関して利害の相反性があるが、このことは、「後見人」と違って(参考『民法』860)、一般の「後見監督人」と同様に、その欠格事由とならない。また、「取締役」についても、これが株主である場合、「株式会社」の後見人たるには、同様の利害の相反性があるが、一般の「後見人」の場合と同様に、「株主総会」という後見監督人があることによって、欠格事由とならない(参考『民法』860)。
19 たとえば、托鉢修道会のようなものは、その社団としての目的とする活動を営むために、もとより「資産」(目的とする活動に必要な財産)を必要としていない。
20 もとより『民法』が、この「雇用」に関し、当時の個人商店などの実状からみても異様な、個人と個人の外注契約をモデルとしている上に、労働関係の法律が、使用者と労働者を対立図式で考えるマルクス主義の影響下で構築されたために、このような事態に至ったのであろう。
21 社会学的に正確に言えば、巨大資本を持つロスチャイルド家なども、経営に関して、すくなくとも男は自分で働かなければならない、という意味で、せいぜい「アッパーミドルクラス」である。「アッパークラス」は、貢納や年金によって男女ともに消費のみで生活する王侯貴族に限定される。このような意味でも、「資本家」対「労働者」という図式は、歴史的な事実性を欠いている。
22 このように、「中間管理職」、すなわち、「雇われ経営者」と「労働者」とが、同じ労働者にもかかわらず、それぞれ「資本側」「労働側」として対立したのであり、「資本家」と「労働者」の直接対立ではない。しかし、このことは、ロックフェラーをはじめとする当時の巨大資本家の行動が、一般市民と利害対立しなかった、などということを主張しているのではない。ただ、このような問題は、思弁的な図式によってではなく、歴史的な事実において論じられるべきであろう。
23 もちろん、「正社員」が「社内労働組合」を結成する場合は、この限りではない。しかし、この〈社団法人〉としての「社内労働組合」もまた、「株主総会」や「取締役会」同様、けっして「株式会社」そのものではありえない。

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近書に『アマテラスの黄金』などがある。)

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