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テレビをつまらなくした真犯人がガキ使・ベッキーや浜ちゃんを批判している/増沢 隆太

INSIGHT NOW! / 2018年1月8日 8時53分


        テレビをつまらなくした真犯人がガキ使・ベッキーや浜ちゃんを批判している/増沢 隆太

増沢 隆太 / 株式会社RMロンドンパートナーズ

1.ベッキーがタイキックを受けるまでの「実際」
ネット記事では実際に見もしないニュースタイトルだけで脊髄反射批判をするものも多いので、今回の番組をきちんと説明したいと思います。(「笑ってはいけない」ルールは省略)

不倫問題でCM女王と呼ばれたかつての好感度No.1タレントの地位を追われたベッキーさんは、この番組の中で出演者の一人、ココリコ田中さんの見合い相手という役で、出演者全員を笑わせ、尻バットの罰を与える役どころです。

ベッキーさんは田中さん不在中に勝手に家に入り、自家用車までカギを開けて乗り込んだ姿をインスタに上げました。そのインスタ写真をみて、出演者は全員笑ってしまい、尻バットをされる・・・という流れになりましたが、番組はそこで終わらずさらに、ベッキーさんにも勝手に罰ゲームが宣言されます。逆ドッキリで、だますはずの側が罰ゲームを受けるという、この番組だけでなくよくある手法でした。

嫌がるベッキーさんは女性キックボクサーとおぼしき人からきつい回し蹴りを食らわされ、へたり込みます。そんなベッキーさんを、先ほどベッキーさんに笑わされた結果尻バットを食らった全出演者や、女性芸人・横沢夏子さんも見て笑うという流れでした。

ちなみにダウンタウン浜田さんは顔を黒塗りにし、ビバリーヒルズコップのエディ・マーフィの扮装をしたことで黒人差別であるという批判が出ています。昔白人が黒人を演じたミンストレル・ショーを想起させるという理由とのことですが、ミンストレル・ショーとこの番組の決定的違いは、「黒人であること」「黒人の愚かさ」をビタ一文笑いにしていないことです。典型的東洋人顔の浜田さんが、無理して中途半端にちゃんとエディ・マーフィ―の扮装をするおかしさを目指しているのは番組を見ればわかります。


2.気に食わないものはすべて浄化(クレンジング)せよという思想
この番組への批判は、同じ不倫をしても男性芸人は笑いで済ませ、女性であるベッキーさんだけは清純さを求められた結果、番組でいじめを行った、不倫したからタイキックの罰を受けたのが差別であるというものです。

ちなみに東京新聞(中日)では今年初頭の特集記事で、乙武さんが不倫報道でバッシングされた件について、やはり清純さを求められる乙武さんやベッキーさんだけが叩かれ、お笑い芸人は逃げおおせたとの記載がありました。

私は政府の都合の良い情報ばかりの忖度ニュースをたれ流す報道には批判的ですが、今回は逆にどちらかといえば忖度報道に反発する立場の方から出ている意見が、ことごとく「自分たちの都合の良い一方的解釈に基づく批判」であり、気に食わない存在は消去し浄化してしまえという恐ろしい主張だと感じています。

不倫批判は女性だからでも、障害を持つ正義派だからでもなく、確実にコミュニケーション戦略を間違え、自分たちに都合の良い報道だけで済ませようとしたことが原因です。逆に清純派や正義派を売りにしたかどうかは別に、少なくともそうした立ち位置で営業活動ができていたことは曲げようのない事実であり、その事実に対する反発心がさらに炎上の下地となっていた背景も無視しています。

私はコミュニケーション専門家として、戦略観の無いコミュニケーションの失敗を差別のせいにするような強引すぎる主張にはがまんがなりません。さらにその結果、自分たちの主張に沿わない番組を辞めさせろという言論弾圧するに至っては、思想や表現の自由をも浄化しようという恐ろしさを感じてしまいます。


3.差別を浄化できない理由と暴力団がなくならない理由
差別が良いなどというつもりはビタ一文ありませんが、なぜそうした邪悪な考えが世の中から消えないのでしょう。これはわれわれ人間の意識の中に、そうした邪悪な思考があり、それを完全に根絶やしにできないからです。

だから差別して良いという理由には全くなりません。しかし人間の心に根付く感情を完全に消去できない以上、そうした意識は持ってはいけない、差別は悪いということを教育で常に広めるという、永遠に続く正と邪の戦いなのです。

暴力団は良くないもの、無くすべきものだと誰もがわかるのに消えないのは、社会において、そうした暴力を背景とした交渉を求める人がいるからです。法律通りの交渉ではらちがあかないことや、法律で禁止されたりグレーとされる風俗サービスと、それを利用する「一般人」をこの世から完全消去できない以上、形態を変えることはあっても恐らく暴力団という機能が消えることはないでしょう。


4.笑いという存在の浄化
90年代に起こったボスニア紛争では、民族浄化という恐ろしいホロコーストが行われました。自分たちと異なる民族、宗教、主張を根絶やしにしようというものでした。どんな主張であれ理由であれ、こんな虐殺が正当化できるはずがありません。

「人を差別する笑いは良くない」という主張があります。しかし古典落語やドラえもんから、失敗をからかったり間抜けな人をちゃかす部分を削除してしまったら何が残るでしょうか。背の高い人低い人、やせた人太った人、勉強ができる人できない人、美人とぶさいく、結婚した人しない人、できない人、子供を持てない人や異性間恋愛ではない人。人間の数だけ個性はあり、マジョリティでない個性は時として差別的に扱われます。

しかし古典落語の長屋の人たちは今回の批判のように「気に食わないから浄化」とは言いません。「与太郎は間抜けだけど良いとこもあんだよ」と共生しています。「気に食わない笑いだから自分は見ない」宣言はもちろん自由です。しかし番組をやめろとかテレビを捨てろ、そして子供の教育に良くないという主張の結果、どんどんおもしろい番組は浄化されていきました。


5.ビッグブラザーを招く「浄化思想」
今のテレビ番組がつまらないということには、テレビで育った私は全面的に賛成です。しかしそれにはおもしろい番組を作れない環境にしてしまった、一部の視聴者の責任を避けて通ることはできません。

気に食わない存在にクレームをつけて、スポンサーを攻撃するなど、さまざまな手を使っておもしろさを浄化した結果が今です。テレビ局の製作に関わる人たちは、今でも障害物競争のような障害だらけの規制の下でがんばっていますが、ビートたけしさんらかつてのおもしろかったテレビの全盛期を知る人たちからすれば、今の環境でおもしろい番組を作ることはもはやできないとわかっているようです。

人を傷つけない笑いは恐らく不可能でしょう。「1984年」で、ジョージ・オーウェルはニュースピークという、ビッグブラザーの思想を盤石にするため、党イデオロギーに反する思想を除去し、それを表現する単語を消去する世界を描きました。

「差別」と「差別的」は別物です。私はおもしろかったかつてのテレビ番組のような内容を見たいと思います。差別的な表現については、浄化ではなく教育によって常に意識を持たせ続ける以外にないと思っています。クレーマーによっておもしろい番組が消去されることには、これ以上耐えられません。

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