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ロジカルシンキングを越えて:0.企画力のあるビジネスパーソンを量産するために/伊藤 達夫

INSIGHT NOW! / 2018年2月5日 7時0分


        ロジカルシンキングを越えて:0.企画力のあるビジネスパーソンを量産するために/伊藤 達夫

伊藤 達夫 / THOUGHT&INSIGHT株式会社

「ロジカルシンキングは大いなる誤解に包まれている。この誤解を解かねば日本のビジネスパーソンの企画能力の開発を進めていくことはできない。今後、大きな危機が訪れると考えられる日本市場において、この状況を打破するためには、内需を拡大させるような新規事業を次々と興していかなくてはならない。そのためには、日本に投資機会、資金ニーズをもたらすような新規事業を次々と企画できるようなビジネスマンを量産しなくてはならない。日本の将来を、未来を創り出したい。」

この信念のもとにこの文章を書いてみようと思いました。

「ロジカルシンキングなんて、いくらでも本があって、もはや基本スキルとして普及しているではないか。何をいまさら」と思うかもしれません。

確かに、ある時期から、巷にはロジカルシンキング本が溢れました。しかし、それらの書籍を手に取り、学習する真面目な学習者の企画力が一向に上がっていないように見えます。

たとえば、ずっと実施しているエグゼクティブを含めた方々に向けた研修で感じることは、研修当初の段階で比較すると、彼らの企画力は確実に低下していると感じます。いわゆるロジカルシンキングの学習方法は巷にあふれているはずなのに。

これはなぜなのでしょうか?

彼らはいわゆる優秀な方々で、ロジカルシンキングぐらいは知っていて、研修もおそらく受けています。なのに、なぜ、企画力は上がらないどころか低下しているように感じられるのでしょう?

また、コンサルティング出身者が新興企業では企画部門の要職を占めるようになってきているようです。コンサルティング出身者のキャリアが開かれていることは、それが評価されているということなのでしょう。

ただ、そういった企業の企画職の方々が口々に言います。「コンサルティング出身の上司にロジカルに考えなさい!といつも言われるが、どうやればいいかわからない」と。「こうやればいいと言いながら上司はすらすらと企画書を作っていくけれど、どうすればそうなるのかがわからない」と。

それに対して、いわゆるロジカルシンキングとは違ったアプローチで思考を教えていくと、彼らは「ようやくわかった」と言って企業へ帰っていきます。これはどういったことなのでしょうか?

思うに、人々が忘れがちなこととして、そもそも「ロジカル」と「シンキング」は別なるものだ、という前提があります。日本語ではロジカルは論理。シンキングは思考です。これをいっしょくたにすることは、アインシュタインが時間と空間を統合して「時空」という用語を作ったぐらいの飛躍があると思います。

しかし、世間には「ロジカルシンキング」というワンワードで普及してしまいました。これは非常に由々しき問題です。

ではまず、論理とは何でしょうか?

「推論」は論理だ、と思われる方がいらっしゃるでしょう。いわゆる、アリストテレスの三段論法の世界です。

ソクラテスはヒトである。

すべてのヒトは死ぬ。

ソクラテスは死ぬ。

こういった形式的に正しい推論の形を探究する側面が論理にはあります。この三段論法は例として非常にポピュラーですが、説明を試みます。

これはソクラテスの未来について、推論しています。ソクラテスは未来にどうなるであろうか?と。すると、ソクラテスはヒトに属することから推論ができるかもしれません。ヒトが未来にどうなるか?については、これまでのヒトを見ればわかります。ヒトの未来に共通するものは何か?それは死ぬことです。ヒトは死ぬ。従って、ソクラテスも人であるから死ぬ。

この形式に従えば、ある物事が属する集団のについて言えることが、その物事についても言える、ということになりますね。

これは推論ですが、全く頭は使っていません。正しい推論の形式があるというだけのことです。こんなものは思考ではない。

また、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と語った哲学者ウィトゲンシュタインがケンブリッジで研究した領域も確かに論理と呼ばれる領域です。

ウィトゲンシュタインは著書「論考」の中で、言語と論理について考え、その限界を定めることで、思考を定めようとしました。もしも、言語と論理の限界が思考の限界とイコールなのであれば、「語りえぬものについては沈黙しなければならない」というのもある意味でわかる面もあります。

そして、言語と論理とは何かを彼なりに明らかにし、「すべての哲学的問題は解決した」と述べます。

しかし、ウィトゲンシュタインは晩年、この議論を棄却し、「語りえぬものについて語る」試みを始めます。思考は言語や論理で語れる範囲を超えることを彼自身が認め、議論をやり直すわけです。

日々企画業務に携わっている方ならば、企画の限界は言語の表現力を超えることはおわかりでしょう。その「語るのが難しい部分をうまく語ってこそ企画」とお考えの方もいることと思います。

ぼーっとしている時に突如としてわいてくるインスピレーション。散歩している時にふと思い浮かぶアイデア。それらは言語を超えています。もしも、言語の限界が思考の限界だとしたら、これらの出来事が説明できなくなります。

余談ですが、音楽家は言語で考えて作曲をしているのか?というと、おそらくそうではないというのは簡単にわかるでしょう。彼らには音が直接思い浮かんでくる。それを楽譜に落とすだけです。楽譜が浮かぶと言うよりは音が浮かんでくるのですよね?

では、思考とはなんなのでしょうか?

プラトンは思考を対話だと言いました。

彼の著作は対話によって構成されており、対話によって、議論が深まっていく構成をとっています。確かに、これは思考と言えそうです。

しかし、特に対話がなくとも、頭の中でいろいろ思い浮かべるのも思考でしょう。たとえば、音楽家が作曲をするのも思考でしょうし、頭の中で計算をするのも、思考でしょう。

また、「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺がありますね。

具体的には、「風が吹けば、土ぼこりが立ち、人の目に入って、目が不自由な方が増える。そうすると、目が不自由だと三味線を弾いて生計を立てざるを得ないから、三味線が売れる。三味線は猫の皮を使って作るから、三味線が売れるようになると、猫が減る。そうすると、ネズミを食べる猫が減ってしまって、ネズミが桶をかじってしまう。そうすると、桶を買い替える人が増えるから、桶屋が儲かる」です。

実際に風が吹いて桶屋が儲かるかどうかはわかりませんが、こういった一見無関係に見える物事同士を因果関係として結びつけるのも思考でしょう。

また、戦争と経営は似ている!と思うのも思考でしょう。この「似ている」によって、経営戦略論の扉が開かれたと思います。競合に対してどう優位性を持つか?はまさに戦争から着想を得ています。戦争に関しては人間は勝つためにいろいろと考えてきた。この知見を経営に活かすことができないのか?というのが、経営戦略論の端緒だと思います。

「芸術は爆発だ!」「時計が歪む!」「果物から虎が飛び出てくる!」といったわけのわからないインスピレーションもおそらくは思考でしょう。

この「論理と思考という、2つ概念は明らかに違うということ」は、伝わるでしょうか?

では、この本来別物の2つの概念を結び付けていわんとするところはなんなのでしょう?

おそらく、ビジネスに限定して言えば、「自分が考えたこと」が「他人に伝わるように」しましょう、ある程度の「正しさ」を持ちましょう、といったことなのだと思います。

アカデミックに捉えるとすると、環境に系を見出し、そこで再現可能な法則を見出し、人類の資産とするためなのですが、ビジネスではこういうふうに考える人は少ないと思います。

しかし、ロジカルとシンキングが本来別の2つのものであるという認識がないと、なかなか企画はできないと思います。そもそも考えることって、「人に伝える」ために考えるだけではないでしょう?

一人でなんとなく考えることだっていくらでもあるわけです。不意に下りてくるというか、湧いてくるように感じるアイデアもあるわけです。

というか、人間の思考なんて、放っておけば、人に伝わらないものばかりではないでしょうか?そして、現実世界に再現できるかなんてわからないものばかりではないでしょうか?

それを人に伝えるように、現実で再現性を持ちうるように矯正しつつ、普段のように考えようとしても、なかなか厳しいのです。人の思考はおそらくそんなふうにできていない。

今回は問題提起を中心として書いてみました。次回はコンサルティングにおける「ロジカルシンキング」について考えてみようと思います。

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