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アルプスの潜水艦乗り:『サウンドオブミュージック』の裏のスパイ大作戦/純丘曜彰 教授博士

INSIGHT NOW! / 2018年3月15日 18時21分


        アルプスの潜水艦乗り:『サウンドオブミュージック』の裏のスパイ大作戦/純丘曜彰 教授博士

純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

『サウンド・オブ・ミュージック』1964は、もともとリメイク映画で、オリジナルはドイツ映画の『トラップ・ファミリー』1956。曲が違うだけで、プロットも、カメラワークもそっくりなところが多い。だいいち、もともとがミュージカル映画だ。

もちろんハリウッドの方が、演出も、脚本も、はるかにあかぬけている。余計な、細々したエピソードをばっさりやって、話の構造がしっかりした。クライマックスも、ドイツのオリジナルは、自由の女神前の移民局のエピソードで、亡命プロットが飛んでいるために、前とつながりが悪い。そして、最後にオヤスミの歌が来る。知ってのとおり、ハリウッド版は、オヤスミの歌が亡命への重要なプロットになって、ロルフの裏切りと、尼さん仲間の機転がクライマックスになり、最後は、冒頭に対応する、あの山登りの遠景シーンへと突き抜ける。こっちの方がおもしろいに決まっている。

とはいえ、ドイツのオリジナル版も捨てたものではない。ロケや服装、歌は、アメリカのパチものなどとは比較にならない重みがある。もちろん、トラップ邸等々はやはりセットなのだが。オリジナル版にはそのプロットが入れられているように、とにかくトラップ一家は、カネに困っていた。だから、トラップ邸だって、ホテルとして部屋貸ししており、執事も、ファミリーも、その従業員として働いていた。パーティだの、夜中に逢い引きだのどころの状況ではなかった。イタリア人などが出たり入ったり、その接待で、毎日、大騒ぎ。

アメリカに渡っても、状況は改善せず、マリアは自伝を出し、その映画化権を、このドイツ映画に売り渡してしまう。ハリウッドは、これを『サウンド・オブ・ミュージック』にリメイクするに当たって、ドイツ映画から映画化権を譲り受けたのであって、トラップ一家には、まったくカネが入らなかった。まあ、それでも、これをきっかけに、トラップ一家の知名度はあがり、ロッジもツアーもうまくいくようになるのだから、悪いことではなかっただろうが。

しかし、この話、謎が多い。まさにアルプスの闇の奥。いちばんの問題は、なぜ、どのようにして亡命したか、だ。まず気をつけなければならないのが、ここではウソが何重にも塗り込められている、ということ。もっとも表層が、映画を見ただけの日本人やアメリカ人の話。その次が、映画のロケ地を商売にしているオーストリア人ガイドの話。そして、これらをフィクションとして小馬鹿にしている現地のオーストリア人の話。

だが、これだけでは終わらない。映画を嫌っているトラップ一家の話ですら、怪しい。映画に便乗してロッジを宣伝している今のトラップ一家の話と、まだ生存している老娘マリアの証言は食い違う。さらに、母マリアの自伝も、まったく異なる。トラップ家の執事がナチスシンパのスパイだったのは、よく知られたエピソードだが、母マリアにしても、本人に自覚があったかどうかはともかく、もともとはカトリックからトラップ家に送り込まれた情報係だ。結婚してから後は、マリアが情報提供を拒否したのか、代わってワズナー神父が張り付くことになる。

いずれにせよ、一家の亡命については、トラップ氏とワズナー神父が手配したことであって、実のところ、母マリアさえも、なぜ、どのようにして亡命したか、については、きちんとは理解していなかったのではないか。いや、トラップ氏やワズナー神父ですら、その背後で動いたカトリックとイタリア、英国、米国の政治的な思惑と組織まで、把握しきれていなかっただろう。

トラップ氏は、もともとアドリア海にある小港ザダール(当時はこのあたりまでオーストリア領)の、ただの海軍軍人一家の次男に過ぎない。ところが、彼が渡航先で偶然に出会って恋に落ちた相手が、イギリスの天才的な艦船工学者ホワイトヘッドの孫娘だった。このため、彼は、彼女との結婚によって莫大な財産を相続することになり、潜水艦艦長として、叙勲されるほどの戦果を挙げる。この財産そのものは、大不況の影響で、そのほとんどを失ってしまい、映画のころには、上述のように自宅をホテルにして生活をやりくりしているような状況。第一次大戦敗北で海を失ってしまったオーストリアという国の海軍大佐など、仕事があろうはずもない。子どもたちに八つ当たりしながら、ホテルの客相手に歌でも歌っているくらいしか、することがなかった。

ところが、ロンドンの銀行の金庫には、ホワイトヘッドの英国艦船に関する資料が眠っていた。いまだ英国とドイツは開戦前夜であったため、トラップ氏がナチスドイツ傘下に入った場合、かえって合法的に、この資料をナチスドイツに引き渡さざるをえない状況だった。イタリアの立場も微妙だった。ムッソリーニは、かならずしも大ドイツ主義を好んではおらず、ブレンダーノ峠では、いつでも戦車隊がドイツへ進撃できる体制にあった。まして、カトリックは、反宗教的なナチスとの距離を測りかねていた。

そもそも、この時期、オーストリアは、けっして民主主義国家などではなく、オーストリア・ファシズムによるオーストリア主導の大ドイツ主義(つまり逆にドイツを吸収する)が流行しており、ドルフース、そしてシュシュニックと、独裁首相が支配していた。トラップ大佐自身、子どもたちの厳しいシツケを見ればわかるとおり、けっして善良で平和な民主主義者などではなく、むしろ典型的で極右的な大ドイツ主義のタカ派の軍人。へたれのナチスドイツなんかオーストリアが呑み込んで、北に海を取り戻そう、そうすれば、潜水艦乗りのオレだって、こんな山の中に埋もれておらず、もっと活躍できるのに、というところ。

しかし、1938年3月11日、ヒトラーが、起こってもいないウィーン暴動を口実に戦車隊で侵攻、シュシュニックも逮捕されてしまう。これを見て、イタリア・ファシズムのムッソリーニは、ドイツとの対決より妥協を選び、オーストリア、とくにチロルは、ポーランド同様、世界から見捨てられることになる。ヒトラーが、第一次世界大戦で成功したオーストリアの潜水艦隊による海上封鎖を狙っていることは明らかだった。ましてトラップ大佐のようなオーストリア大ドイツ主義者こそ、ナチスドイツにとってまっさきに取り込むべき身中の敵。それゆえ、トラップ大佐を亡命させることは、カトリックやイタリア、英国、そして米国にとって、急務となった。

周到な準備の上、山の雪解けを待って、6月、計画は実行に移される。彼らの実際の亡命ルートは、ザルツブルクから国境沿いにホーホケニッヒを山越えしてツェル・アム・ゼー(トラップ氏の前の屋敷)へ。ここから、ツェル・アム・ツィルタール(母マリアの故郷)へ移動。ふたたび山越えして、サン・ジョルジオ(ブルニコ)にしばらく潜伏。ここで、一家は、トラップ氏のアドリア海ザダールの出自を根拠にイタリアの国籍を得る。その後、これを利用してロンドンへ、そして、アメリカへ。一家の入国記録は、アメリカ公文書館のものが、すでに公開されている。

この地方の地形は、地図で見るほど簡単ではない。ザルツブルクから出るにも、南に通じる道は細い谷しかなく、ナチスが彼らを街から出すわけがなかっただろう。また、オーストリアから出るにも、まちがってもブレンダーノ峠を通るわけがない。その一方、山には、国境もなにもない、世界に通じる自由な道がある。しかし、それは山に登る者だけが通ることのできる道だ。

このルートと、バルカンの国籍を捏造する方法は、彼らだけでなく、その後、ナチスドイツからのユダヤ人亡命ルートとして大いに用いられていたと思われる。南チロルは、ドイツ系住民とイタリア系住民の関係が複雑で、母マリアが自伝を書いたころにおいても、地元協力者の詳細を明かすことははばかられたのではないか。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学vol.1 などがある。)

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