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『劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく!Re:』を本気レビュー! なぜ「ぼざろ」は社会現象になったのか? セカイ系と“訂正する力”から見る「ぼざろ」が今に刺さる理由

Fav-Log by ITmedia / 2024年6月14日 17時39分

『ぼっち・ざ・ろっく!』(出典:Amazon)

 2022年に放送され、大ヒットしたTVアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』を再編集した劇場版の前編『劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく!Re:』。上映館数が約130館と中規模であるにもかかわらず、7日に公開されると週末動員ランキングで首位を獲得。“ぼっちちゃん”や“結束バンド”の活躍を見ようと、いま多くのファンが劇場へ駆け付けているようです。

 かくいう私もぼっちちゃんの自意識過剰な誇大妄想やコミュ障な姿に心を打たれたファンの1人として、ぼっちちゃんの勇姿を見るため早速映画を鑑賞。やはり傑作だなという感想ですが、同時になぜここまで我々現代人の心に刺さるのか疑問も出てきました。

 そこで今回は「ぼざろ」が人の心を打つ理由を、セカイ系との関係や哲学者・東浩紀氏の「訂正する力」などをヒントに考えてみようと思います。

●『劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく!Re:』のレビュー:“ぼっちちゃん”誕生の背後にあるセカイ系作品

 TVシリーズのオープニング「青春コンプレックス」の冒頭はなぜか宇宙に浮かぶ地球の絵から始まります。地球から日本列島、一軒家、押し入れの中のぼっちちゃんと徐々にズームアップしていき、最後は足が浮いて暗闇の中を漂うという不思議な表現が見られます。いきなり劇場版ではなくTVシリーズの話から入ってしまい恐縮ですが、この冒頭のシーンには「ぼざろ」のテーマの1つが表現されているものと推測されます。

 それはズバリ「セカイ系からの着地」であると私は考えています。セカイ系とは簡単に言えば、主人公やヒロインの行動によって世界が続くか滅ぶかが決定されるような物語のこと。

 1995年に登場した『エヴァンゲリオン』をきっかけにセカイ系は大変な人気を獲得し、2000年代に入ってからも『最終兵器彼女』や『涼宮ハルヒの憂鬱』、2010年代には『魔法少女まどか☆マギカ』や『天気の子』など数々のヒット作が誕生してきました。最近で言えば“あのちゃん”主演で話題の『デデデデ』もこの一群に入る作品です。

 一般的にセカイ系作品は、主人公の命運と世界の命運がイコールで結ばれていることが多く、主人公と世界が同じ重みを持って表現されています。こうした作品が好調だった状況から見えてくるのは、「私=世界」と考えてしまうくらい見る側の自意識が膨張してしまっているということです。では、なぜこれほどまでに自意識が過剰になってしまったのでしょうか?

●『劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく!Re:』のレビュー:セカイ系からの着地としての「ぼざろ」

 自意識過剰の理由について、詳しくは『デデデデ』の考察記事でも紹介しているのですが、端的に言えばコミュニケーション機会の喪失によって、他人よりも自分のことを考える時間が増えてしまったことに原因があると思われます。

 かつては地域や家族で共有していたあらゆるモノを個人が所有するようになり、インターネットやスマホが登場したことで、個人の時間が一気に増加。ほぼ自己完結して生きることが可能になり、ぼっちちゃんのようにひきこもることが容易になりました。ひきこもる時間が増えれば他者との交流はおのずと減り、逆に自分への関心が高まり、自意識が膨張するという結果を招いたのだと考えられます。

 加えて2000年代から始まった個性を育てる「ゆとり教育」や、2003年にリリースされた「世界に一つだけの花」の大ヒットに見られる“自分らしさブーム”のような時代状況も、自意識の膨張に一役買っていると思われます。

 上記のようにして自意識が高められた後、現実の人間とはつながれなくてもインターネットを通じて世界にはすぐつながれるので、自意識過剰のまま世界にいきなり接続するという状態が発生。こうして社会や学校、コミュニティなどをすっ飛ばし「私=世界」という一足飛びのセカイ系的な思考が可能になったのだと推察されます。

 ぼっちちゃんも学校に居場所が無い中、ギターヒーローとして動画をアップし、ネット上で活躍していたかと思います。こうした社会や学校といった中間領域をパスして、いきなり世界につながっていく流れはセカイ系的な発想と被ります。

 実際ぼっちちゃんは事あるごとに、世界規模のやや大げさな妄想にとりつかれることが多く、一言で言えば地に足がついていないところがあるのです。

 以上の点を踏まえると、オープニングの冒頭で地球(セカイ)の絵からスタートし暗闇で浮いているぼっちちゃんの姿は、セカイ系的思考で地に足のつかないぼっちちゃんの心象風景と考えることもできそうです。

 しかし、そんな地に足のつかないぼっちちゃんも、仲間とのバンド活動やバイト経験を通して、社会への接点を増やしていき、地に足がつくようになっていきます。「私=世界」というセカイ系的な価値観から、押し入れを出ることで居場所ができ、現実にちゃんと着地していくのです。そうして暗闇の中で浮遊していたぼっちちゃんも、ライブハウスという地に足をつけられるようになったわけです。

 この「セカイ系からの着地」というテーマは近年他作品でも見られるもので、その代表例がセカイ系アニメの元祖である『エヴァンゲリオンシリーズ』の最後の作品、2021年公開の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』です。当該作の「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」のキャッチコピーからも、「セカイ系からの着地(あるいは卒業)」というテーマが読み取れるかと思います。

 「ぼざろ」も最近現れてきた「セカイ系からの着地(さようなら)」を、1つの軸に展開している作品として位置付けても良いかもしれません。

●『劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく!Re:』のレビュー:2010年代の“ぼっちブーム”と“自己責任論の普及”による孤独

 内閣官房が行った「人々のつながりに関する基礎調査(令和5年実施)」によると、日本人の約4割が孤独を感じたことがあると回答しており、孤独(ぼっち)が一般化していることがうかがえます。

 その背景について一部はすでに紹介しましたが、2010年代の“ぼっちブーム”と2020年代の“コロナ・ショック”も大きく関係しているので、その点をここで少し触れておこうと思います。

 まず2000年代からニコニコ動画でニコ生主やボカロPが登場し、1人でアニメを制作した新海誠監督などソロプレイヤーが勢いを見せ始めます。2010年代に入ると「好きなことで、生きていく」などの標語と共にYouTuberが世間的な認知を獲得。起業家による自己啓発本出版やセミナーなどが盛んに行われ、自助努力によって未来が拓けるという考えが浸透していきます。

 こうしたネットを中心に展開される個人の活躍により、IT技術などを駆使することで1人でも生きていけるのではないかという期待感が持たれるようになりました。

 同時期のサブカルチャーを見ても似たような傾向が読み取れます。『物語シリーズ』の主人公・阿良々木暦(あららぎこよみ)は友達がいないという設定ですし、『僕は友達が少ない』の羽瀬川小鷹(はせがわこだか)、「このライトノベルがすごい!」で3年連続1位に輝いた『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の比企谷八幡(ひきがやはちまん)など、孤独やぼっちを自称するキャラを主人公とする作品が人気を獲得していました。

 芸能界においても、セカンドブレイクを果たした有吉弘行氏、坂上忍氏など個人で活躍する毒舌キャラが2010年前後の同時期にブレイク。さらに林修氏を筆頭に「友達不要論」が叫ばれるようになり、作家の森博嗣氏の『孤独の価値』をはじめ孤独を礼賛する書籍が続々登場。2012年スタートのドラマ『孤独のグルメ』の大ヒットなど「友達はいらない」「孤独を楽しめ」という価観が一世を風靡しました。

 さらにヒトカラや1人焼肉専門店の増加など、サブカルチャーから書籍、テレビ、街中の店舗などあらゆる側面で、空前の“ぼっちブーム”が到来。また有名お笑い芸人をターゲットにした生活保護バッシングなど“自己責任論”が強調される時代でもありました。

 これは私の感覚ですが、2000年代の“自分らしさブーム”をベースに自意識を膨張させた私のようなゆとり世代は、上記のようなぼっちブームと自己責任論の強調された2010年代を経験したことで、自分自身への関心をさらに強めていくことになったのだと思われます。

●『劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく!Re:』のレビュー:「ぼざろ」放送前にみんな“ぼっち”になっていた

 2020年代に入ると、コロナ・ショックという予想外の事態に世界が直面することになります。人々は一斉に巣ごもりさせられ、世界中の人々が半ば強制的にある種の“ひきこもり状態(ぼっち状態)”を経験することになりました。

 外部との接触が無くなることで、自分のことを考える時間が増え、ぼっちちゃんと同じように自家中毒に陥ってこじらせたり、人と話せないがゆえにコミョ障になってしまったりした人も少なくないはずです。

 2000年代の自分らしさブーム、2010年代のぼっちブーム及び自己責任論ブームの流れで、ぼっちになった人たち。コロナ・ショックによって半強制的にぼっちになった人たち。このようにあらゆる人々が2020年代までに一度は、比較的濃厚なぼっち状態を経験することになったわけです。

 つまり、社会全体でぼっちという悲劇をある程度共有していたからこそ、2022年に登場した「ぼざろ」は多くの人の心をつかみ、社会現象化したものと推察されます。放送前に「ぼざろ」の良さを理解する準備が整っていたと言えるかもしれません。

 事前にみんながぼっちのツラさを知っていたからこそ、ぼっちちゃんのこじらせた姿や他人を恐れる姿、ビビリながらも自分の居場所を取り戻そうともがく姿に多くの人が共感できたのではないでしょうか。巣ごもりの後遺症でうまく人と関われなくなってしまった人にとって、ぼっちちゃんは自分を重ねられる存在であり、そんなぼっちちゃんが壁を乗り越えていく姿に勇気をもらえた人は多いはずです。

●『劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく!Re:』のレビュー:ぼっちの否定ではない。「訂正する力」から見る「ぼざろ」の魅力

 「ぼざろ」の魅力は、ぼっちであることを否定的に解釈していないことだと私は考えています。この「ぼざろ」の魅力を考える上で、参考になるのが哲学者・東浩紀氏が提唱する「訂正する力」あるいは「訂正可能性の哲学」という概念です。

 東氏によると「訂正する力とは、過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力のことです」。もしくは「いままでの蓄積を安易に否定するのではなく、むしろ過去を「再解釈」し、現在に生き返らせるような柔軟な思想」という言葉で説明されています。

 私は「ぼざろ」においても、「ぼっち」という状態に対して、上記のような「再解釈」が行われているように思うのです。ぼっちちゃんが結束バンドに出会うまで、「ぼっち」は単にネガティブなものとして語られていました。しかし、虹夏に誘われバンドに参加すると、ぼっち時代の蓄積が生かされることになります。

 ギターヒーローとして地道に練習し動画を上げ続けてきたことで、ぼっちちゃんは類まれな演奏技術を身に着けていました。初ライブでメンバーが緊張し演奏がバラバラになる中、ぼっちちゃんのスーパーテクニックでバンドの調子が戻ります。まさにギターヒーローとしての活躍を見せたわけです。

 またオリジナル曲の作詞を任されたぼっちちゃんは、始めは「明るい歌詞の方がいいのかな…」と自分の個性を殺してありきたりな歌詞を描き、メンバーのリョウに見てもらいます。

 しかし、リョウはそこに違和感を覚え「これは本当にぼっちが描きたいことなのか?」と質問。それを受けてぼっちちゃんは「やはり自分の言葉で書かねば」と、ぼっち経験者ならではのこじらせた内容の歌詞を描き上げ、その独自性がバンドのみんなに受け入れられることになります。

 ギターのスーパーテクニックでみんなを助けることも、こじらせた歌詞を描くことも「ぼっち」の過去が無ければあり得なかったことです。

 つまり「ぼっち」によって得た経験や蓄積を安易に否定するのではなく、むしろその過去を「再解釈」し、現在に生き返らせるという、これらのシーンにはまさに「訂正する力」が働いていると考えられるのです。

 ぼっちを単に暗いこととして投げ捨て、自己改革するという安直な話になっていないのが「ぼざろ」の魅力的なところなのです。またぼっちちゃんの自意識過剰な姿を、あくまでもパロディ全開の楽しいギャグとして見せて、ぼっちを“暗いこと”ではなく“面白いこと”として再解釈しており、表現の上でも「訂正する力」が働いている作品になっています。

●『劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく!Re:』のレビュー:“ぼっち”からの現実的なリハビリが描かれている

 とはいえ、ぼっちちゃんは過去の「ぼっち経験」を完全肯定して、ぼっちで居続けようと過去の自分を頑なに守っているわけでもありません。基本的にはぼっちになったことを悔やんでおり、変わりたいと願っています。

 そのためぼっち時代に得たスキルを生かしつつも、バイトで接客するなど不慣れなことに挑戦して自分を少しずつ変えていきます。

 酒好きの廣井きくりからアドバイスを受けたことで、目の前の観客が敵ではないことに気づく場面も印象的でした。あのシーンからも、ぼっちちゃんが自分の考えを訂正していることが読み取れるかと思います。

 さらに言えば、もともと「ちやほやされたい」という自分中心の考えだったぼっちちゃんが、仲間とのバンド活動を経て「ちやほやされたいのは変わらない」と思いつつ「みんなの大切な結束バンドを最高のバンドにしたい」と利他的な考えに目覚めます。

 このセリフはまさに「過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する」訂正する力が働いている瞬間のように見えます。過去の自分と新しい自分の両面を含んでおり、訂正する力が発揮された言葉だと感じました。

 つまり「ぼざろ」では、ぼっちであることを反省し変わろうとする一方で、ぼっちの時に得た能力や考え方はちゃんと現在に生きているという、単なるリセットでも単なる過去の肯定でもない…現状に合わせて過去を再解釈しながら成長していくという現実的なアプローチが取られているわけです。ゆえに、多くのぼっち経験者にとって「ぼざろ」は物語として現実味があり納得感があり腹落ちするのです。

 これがもし、単に「ぼっちは良くないことなので、友達を作りましょう」という過去を全否定する全面転換が行われたら、説教臭くて見ていられなかったはずです。逆にぼっちであることにいつまでも固執し、自己愛と自己嫌悪でグルグル回っているだけというのもキツイでしょう。

 ぼっちの過去を再解釈して現在に生かしながら変化していくからこそ、「ぼざろ」は多くの観客の心に届いたのだと思われます。

 今まで見てきたようなぼっちブームやコロナ・ショックなどの時代背景を前提に抱えた孤独な(ぼっちの)観客にとって、「訂正する力」が描かれている「ぼざろ」は社会へ戻るための処方箋として機能しているのかもしれません。

 ぼっちを全否定するのではなく、ぼっちにこだわるのでもなく、ぼっちの過去を再解釈しながら現在に生かす形で一歩ずつ進んでいけば良い、そんな風に語り掛けられているのだと、私は「ぼざろ」という作品を再解釈して受け取りました。

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