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『ガールズバンドクライ』を本気レビュー 仁菜は「うっせぇわ」の擬人化!? 「ガルクラ」が覇権アニメになった理由を考える

Fav-Log by ITmedia / 2024年6月29日 8時15分

『ガールズバンドクライ』(出典:Amazon)

 少女たちのやり場のない気持ちがロックと共に解放される、魂のバンドアニメ『ガールズバンドクライ』。春アニメとして登場すると、魂を揺さぶる良質な音楽と、心を打つストーリーテリングにより、多くのファンを獲得。今期の覇権アニメに推す人も少なくなく、筆者もその意見に完全に同調する1人です。

 なぜ「ガルクラ」はこんなにも我々の心に刺さるのでしょうか? その理由は何よりもまず、井芹仁菜を主人公に抜擢したことだと筆者は考えています。

 今回は仁菜の性格と現代の時代性をクロスさせながら「ガルクラ」が覇権アニメになった理由を考えてみようと思います。本記事はネタバレを含むため、本編を見てから読むことをおすすめします。

●『ガールズバンドクライ』をレビュー:仁菜と「うっせぇわ」に共通する「自傷的自己愛」とは?

 仁菜の超が付く程こじらせた姿を見た時に思ったのは「分かるなぁ」という共感と、Adoの「うっせぇわ」みたいな性格だなぁという感想でした。仁菜も「うっせぇわ」も時代精神を反映したものだと筆者は考えています。どういうことなのか、この点を把握する時にキーワードとなるのが、精神科医・斎藤環氏が提唱する「自傷的自己愛」という概念です。

 自傷的自己愛とは、簡単に言えば自分を傷つける考えや行動を繰り返す一方で、自分に強い関心を持つことから逆説的に自分を愛している状態のことを言います。「自己嫌悪」と「自己愛」の狭間でもがいている状態と考えると分かりやすいかもしれません。

 近年この自傷的自己愛に陥る若者は増えているとされており、筆者自身も自己卑下しがちなのでこの感覚は良く分かります。そして筆者には仁菜もまた自傷的自己愛に該当する人物に見えるのです。

 例えば、仁菜は仲良く話しかけてくるドラムのすばるに対してやたらと警戒したり、でも距離を取ったら取ったで本当はひとりぼっちは嫌だから家で泣いてしまったりと…とにかく面倒くさい性格です。第3話で桃香が言うセリフも印象的で「仁菜は気が弱いくせに意固地で、臆病なのに自信家で、自己矛盾のコンプレックスの塊で」と仁菜の性格を的確に説明していました。

 桃香が言う通りで、仁菜は常に相反する感情を抱えて葛藤状態に自分を追い込んでしまう癖があります。その姿はまさに自分が嫌いだけど、同時に根底の部分では自分を愛している自傷的自己愛の状態と重なります。

 そして2020年に登場し社会現象化したAdoの「うっせぇわ」も、仁菜と似たような性格を持っています。「ナイフの様な思考回路持ち合わせる訳もなく」と自分を卑下したかと思ったら「うっせぇうっせぇうっせぇわ、あなたが思うより健康です」とサビで自己愛を爆発させています。

 このように「うっせぇわ」は基本的にAメロからBメロで自己卑下、サビで自己愛という形で、自傷的自己愛を繰り返す構成になっているのです。

●『ガールズバンドクライ』をレビュー:自意識過剰な状態を「ロック」の名の下に肯定してくれる優しさ

 自己嫌悪と自己愛の行ったり来たりを繰り返す、非常に面倒くさい部分は仁菜と「うっせぇわ」に共通する要素と言えます。そう考えると仁菜は「うっせぇわ」を擬人化した姿と捉えることもできそうです。

 ちなみに2022年に放送され社会現象化した『ぼっち・ざ・ろっく!』の「ぼっちちゃん」も自己卑下しがちなのに自己愛が強いという、上記と同じ性格的傾向を持っています。こうした曲やキャラクターが近年相次いで登場し人気を獲得していることから、自傷的自己愛は現代に一定程度共有されている感覚と言えるかもしれません。

 また斎藤氏によると自傷的自己愛の「多くはいびつな親子関係や、思春期のいじめ体験が起源」とされており、仁菜は親子関係といじめ体験の両方に当てはまる、くしくもドンピシャな背景を持った人物でもあるのです。

 「ガルクラ」が素晴らしいのは、こうした自傷的自己愛によって心の底に押し込められたやり場のない感情に「ロック」という名前を与えて、こじれた精神状態を肯定してくれる点です。

 「仁菜は鬱屈してエネルギーがたまってる。それはまぎれもないロックだ」という第3話の桃香のセリフが象徴的でした。自己嫌悪と自己愛でグルグル回り、自意識過剰になって身動きが取れなくなっている仁菜にとって「ロック」という言葉は魂を解放してくれるものだったに違いありません。そしてそんなやり場のない気持ちをロックに変換して吐き出す仁菜の姿に自分を重ね、ある種の解放感を覚えた人も少なくないはずです。

 自傷的自己愛の人はともすれば「メンヘラ」と呼ばれて避けられがちで、当の本人も自分で自分を責め続けて、孤独に陥ってしまうことがあります。しかし、「それはロックだ」とこじれた状態を肯定してくれる「ガルクラ」を見ることにより、自意識の檻の中で生きづらさを抱えていた視聴者の多くが救われたような気持ちになったのではないのでしょうか。

 自傷的自己愛で毎日が息苦しい現代人の代表として仁菜を主人公に置き、自意識からの解放としてロックを位置付けている点が「ガルクラ」が今支持される理由の1つと言えそうです。

●『ガールズバンドクライ』をレビュー:「ガルクラ」「ぼざろ」に共通するホーム(居場所)が無い問題

 「自分の居場所がどこかにあると信じているから。だから歌う」という「ガルクラ」のキャッチコピーがあるのですが、ここから「居場所の無さ」という問題意識が読み取れるかと思います。

 居場所が無い問題に関しては「ガルクラ」だけでなく、2022年放送の『ぼっち・ざ・ろっく!』や、2023年放送の『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』など近年ヒットしている他のバンドアニメにも共通しているテーマで、いずれの作品も主人公はホーム(居場所)が無くやり場のない気持ちを抱えています。

 この居場所の無さは現代の若者の感覚と対応するところがあります。例えば、こども家庭庁による令和5年の調査を見ると、15歳以下の3割以上が家や学校以外に「居場所が無い」と回答しており、16歳以上になると「居場所が無い」の回答は半数近くに及びます。

 また居場所を失い誰かに頼りたくても頼れない状態を、匿名の相談窓口「あなたのいばしょチャット相談」を運営する大空幸星氏は「望まない孤独」という言葉で表現し、現代の社会問題として警鐘を鳴らしています。なぜこのような居場所の無さや孤独が生まれてしまったのか、その原因はさまざまで、核家族化の進行やコミュニティの崩壊、いじめ問題などいくつかの要素が複雑に絡み合っています。

 ただ大きな流れとして言えるのは「ぼざろ」の記事でも触れましたが、2010年代のぼっちブーム及び自己責任論ブーム、2020年代のコロナ・ショックによる外出自粛などにより、多くの人が孤独な状態に追いやられてしまったという点は関係しているでしょう。

 このように2020年代までに社会全体で「ぼっち」という悲劇をある程度共有していたからこそ、居場所の無さを扱った「ガルクラ」「ぼざろ」などの作品が現在共感を呼んでいるのだと思われます。

●『ガールズバンドクライ』をレビュー:「居場所の無さ」をバンドという「疑似家族」でカバーする

 ネットが発達した現代では部屋の中で自己完結した生き方ができる反面、人間関係を作るのが苦手になっているところがあり、いわゆる「コミュ障」を自称する若者も少なくありません。モノは充実している一方で、人とうまく関係を作れない「ルーム(部屋)はあるのに、ホーム(居場所)がない状態」に陥っている人は一定数いるものと推察されます。

 こうした孤独と居場所の無さを抱えた現代人にとって、いじめと親子問題を抱える仁菜、仲間から裏切られた桃香、祖母の期待に応えようと過剰適応に苦しんでいるすばるなど、人知れずやり場のない気持ちを抱える人物を描く「ガルクラ」は他人事ではないのでしょう。

 途中からバンドに加入するキーボードの智もかつてのバンド仲間との確執や親子関係の問題を抱えているようですし、ルパもハーフ特有の孤独感を持っており、メンバーそれぞれで事情は違うものの、孤独感や居場所の無さという点ではつながるところがあり、視聴者も同じように居場所が無くて寂しいという気持ちを共有させているのかもしれません。

 特に第10話の「ワンダーフォーゲル」の回が象徴的で、仁菜にとってバンドのメンバーが第2の家族であり「ただいま」と言えるかけがえのない居場所になっていたことが分かります。こうしたバンド活動を通して、孤独な人物が本音で語り合えるある種の疑似家族を構築していく流れは「ガルクラ」「ぼざろ」「MyGO」に共通しているポイントです。

 現実社会でも、20代から30代を中心にソーシャルアパートメントが人気を拡大させていたり、共同体によって財産を管理するコミュニズムの重要性などを説いた斎藤幸平氏の『人新世の「資本論』が50万部以上の大ベストセラーを記録したりと、家族とは別のコミュニティを作ろうとする機運が2020年以降強まっています。「ガルクラ」は孤独を自覚してサードプレイスを作ろうとする、こうした現実の感覚とつながるところもあるのかもしれません。

 以上の点から「ガルクラ」は自意識過剰問題をロックで解消しつつ、居場所の無さ問題をバンドという疑似家族で補うという構造で作られていると考えられ、それゆえに生きづらさを抱えた現代の若者に刺さっているのだと推測されます。

●『ガールズバンドクライ』をレビュー:単なる老害問題ではない。人間の複雑さを描く花田脚本の凄さ

 最後に「ガルクラ」の魅力として、単なる「老害問題」や「毒親問題」に陥っていないことにも触れておこうと思います。これは「ガルクラ」の脚本を担当している花田十輝氏の特徴でもあるのですが、劇中の人物のほぼ全員が人間的な複雑さを持っており、基本的にただ悪いことをするだけのシンプルな悪役は登場しません。

 例えば、第4話にて本当はバンド活動をしたいすばるが、大女優の祖母に女優になる気が無いことを伝えようとする場面。凡庸な脚本なら「何言ってるの! 女優になるのよ、あなたは!」と祖母を悪者にして、すばるのことを仁菜と桃香が助けるという世代間対立(あるいは毒親問題)にしてしまうところですが「ガルクラ」ではそうなりません。

 祖母が孫と共演するのが夢だったこと、すばるが女優を目指すと言った時に嬉しかったことなど、祖母のピュアな思いが語られ、逆に娘には女優の仕事を酷く嫌われていることを明かします。祖母はすばるに感謝しているとまで言っており、孫の前に立ち塞がる単なる悪役ではなく、娘や孫との複雑な関係を抱えた1人の人間として描かれています。

 この点は仁菜の家族にも言えることです。教育者として有名な父親の下で育った仁菜は、家訓に従う生活やいじめの時に父親が味方になってくれなかったことなど、父親に対して鬱屈とした思いを抱えています。

 しかし第10話で姉を通じて父の本音を知り、父と語り合う中で自分が愛されていることに気づきます。このシーンもバンド活動に反対するだけの父親として描いた方が簡単ではあります。しかし実際はそうなっておらず、父親の不器用な愛情表現が垣間見え、とても人間味のあるエピソードが展開されています。

●『ガールズバンドクライ』をレビュー:「世代間の和解」がテーマの1つ。実はかなり大人な作品でもある

 「ガルクラ」は序盤だけ見ると老害問題のように捉えられますが、回を追うごとに大人側の事情も語られ、親と子、祖母と孫、年寄りと若者で切り分けて、善と悪で対立させるような安易な物語には、まったくなっていないことが分かります。

 現在世の中にあふれるコンテンツの中には、若者をZ世代と持ち上げながら上の世代を老害と非難したり、逆に「今どきの若者は」的な下の世代批判を行ったりと、世代間対立をあおるものが少なくありません。実際にお互い問うべき責任や問題はあるかと思いますが、だからと言ってどちらかの立場に立って、どっちが良い悪いと言い合っても、溝が深まることはあれど、なかなか解決しないのが現実でしょう。

 「ガルクラ」では世代間対立をあおるのではなく、時間を掛けながらも互いに少しずつ歩み寄って和解したり、すばると祖母のように簡単に白黒つけるのではなくいったん回答を保留にしたりと、上の世代と下の世代で折り合いを付ける現実的なプロセスが描かれています。

 善悪二元論に陥らず人間の複雑さを表現しながら、対立ではなくむしろ「世代間の和解」をテーマの1つに置いているようにも見えます。

 途中で登場するライブハウスの支配人や、プロダクションのマネージャーなどどんな脇役にも癖の強さや個性、複雑さが設けられており、1人たりとも単に役割を演じさせられている空っぽな人間はいません。これは同じく花田氏が脚本を務めた『宇宙よりも遠い場所』と共通する特徴です。

 このようにエンターテインメントとして楽しみつつ「ガルクラ」に独特な深みを感じるのは、人間の描き方が通り一遍でないからであり、単なる類型的なキャラが存在しないからだと言えます。「ガルクラ」が心を打つのは、現実を生きる私たちと同じように登場人物たちが複雑さを抱えており、それゆえにまるで実在するかのような説得力を放っているからなのかもしれません。

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