[神津伸子]【甲子園春夏出場 父・兄の背中を見て始めた野球】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 5~
Japan In-depth / 2015年7月20日 18時0分
母・登代子は、奔放で家を野球のために空けがちな父を支えて、本当に良く家族を支えてくれていた。男4人の食べ盛りをお腹いっぱいにさせるのは相当大変なことだっただろうと、振り返る。
地元の熊本商業高校に進学したが、兄が中日ドラゴンズに入団したことから、名古屋市内に転居、中京商業に転校した。ポジションは、この当時は外野手で、主にレフトを守った。当時、中京商業は全盛期だった。学校の雰囲気が、もう甲子園優勝しないと学校に帰れないくらいだったという。実際、3年生の時には年間、練習試合を含めて70試合をこなしたが、戦績は68勝2敗。負けたのは春夏の甲子園で敗れた試合だけだった。この時には、サードにコンバートされ、主将も務めた。
甲子園は、1961年の春の選抜1回戦で、小倉工業に惜敗。夏の大会では優勝した尾崎行雄(東映フライヤーズ、現北海道日本ハムファイターズ)を擁する大阪の浪商に、準々決勝で完封負けした。悔しかった。今でも、あの試合は忘れることが出来ないという。高校時代で、一番印象に残っている試合でもある。
「同じ高校生なのに」。
その後、野球を続けるために、兄・愼一の推薦で明治大学に進学するつもりだった。しかし、3年の夏の甲子園終了後、慶應義塾大学硬式野球部の当時の前田祐吉監督が、突然、中京商業まで出向いて来た。
「君、慶應で野球をやらんかね。
でも、慶應には、野球だけでは入れんよ」と。
「それならば、絶対に合格してやる!」
と、江藤は発奮。逆境に燃えるタイプだった。
当時、同大には推薦制度が無く、死ぬ気で勉強するしかなかった。秋の優勝した国体に出場した時も、宿舎で勉強していたくらい必死だった。
“四当五落”。
受験勉強のために深夜まで勉強をして、平均睡眠時間が4時間なら志望校に合格、5時間なら不合格という事だ。もちろん、江藤は4時間睡眠で頑張り抜いた。多少の睡眠不足も補える体力には、自信があった。それまで慶應に進学した卒業生は、数えるほどしかいなかった。「今だから言えるが、学校は登校しないで、受験勉強に没頭することを、認めてくれた」。
合格のコツは、とにかく受験科目が少ない学部を選ぶことだった。3年の秋からの取り組みでしたから、多くの科目数をこなすことは不可能。受験する学部は文学部と法学部政治学科に絞っていました。「当時は英語と社会だけで良かったように記憶する」。
残念ながら、政治学科への合格はかなわなかったが、晴れてというか、奇跡的に文学部に合格通知を勝ち取った。実に、勝負強い男である。
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