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[神津伸子]【スコアラー経験が人生を変えた】~「野球は人生そのもの」江藤省三物語 8~

Japan In-depth / 2015年7月31日 18時0分

その後も、ラジオで流れて来るプロ野球、ノンプロ、東京6大学野球の試合経過を、ラジオにかぶりつきながらスコアブックにしっかりと記載した。当時は東京6大学野球も全て放送されていた。スコアブックには東大―法政、日鉄二瀬―コロムビア、全日本―カージナルスなどの記録が克明に記されている。「東京6大学野球が全試合放送される時代でしたからね。ニュースで、今日の6大学なんていうコーナーもありました。でも、長嶋茂雄さんの立教卒業、プロ入りと共に、少しずつ人気に陰りが見え始めた」。

中学時代のノートの1ページ目には大きな文字で縦書きで、こう記されている。今の姿を暗示しているようで、驚いた。

『教訓 野球技の目的は決して野球選手を養成することでなく人間を作ること 鍛錬公平団体行動規則の遵守目的達成への努力民族の推量などの精神を養うことにある 昭和三十一年五月五日』(原文ママ)



話をもとに戻す―。

江藤はその後、指導力・技術力を買われて様々なプロ球団でコーチをつとめることになっていく。
プロ野球コーチ時代、その後―

アメリカ・ドジャースへのコーチ留学が大きく指導者としての意識を変えてくれました。「ホメて伸ばす!」。目から鱗の指導方法でした。

1981年、慶應義塾大学の先輩である巨人軍藤田元司監督(当時)の要請で、一軍内野守備コーチとして、ジャイアンツに復帰した。83年まで藤田体制、84年は王貞治監督の下で選手たちを指導した。85年からは、巨人から派遣されて、米国ドジャース(1Aベーカースフィールドドジャース)へコーチ留学。アメリカ式指導法は、目から鱗だった。

米国では1Aでも、とにかく、選手の自主性を重んじる。ホメて伸ばす。長所や得意なところを、どんどん伸ばしてやる。日本のように「ミスをするな」なんて、言わない。それでは、かえって選手が委縮してしまう。
指導者としての意識が、アメリカで大きく変わった。この後の、選手指導に向けて、大変良い経験となったと話す。

1990~92年、再び藤田監督に請われ、巨人軍守備コーチ、95年、千葉ロッテでバレンタイン監督、96年江尻亮監督のもと、コーチ、ヘッドコーチを経て、代理監督も務めた。99年、JOC(日本オリンピック委員会)コーチとして、シドニー五輪を目指し、初めてアマチュア選手を含めて指導した。やはり、オリンピックは特別だと感じた。国の威信をかけて、日の丸を背負って戦うことは、物凄いことだと思った。

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