続 日本の社会学が国際化できないわけ その2
Japan In-depth / 2016年10月25日 0時0分
渡辺敦子(研究者)
「渡辺敦子のGeopolitical」
英国の社会学者ドナルド・マッケンジーの著書にAn Engine, not a Camera (2006) というのがある。何が「エンジンであって、カメラではない」のかというと、経済理論、ブラック・ショールズモデルと呼ばれるオプション理論で、同理論を発表したマイロン・ショールズはロバート・マートンとともに1998年にノーベル経済学賞を受賞した。だがその翌年、彼らが経営陣を務めるロングターム・キャピタル・マネジメントが市場で空前の損失を出した。同著は、同モデルがどう市場に実際に利用され、それがモデルの通りの状況を作り出し、さらにはどう理論通りでは「ない」状況を作りだしたのかを分析した。
前稿は、科学ジャーナリストの松尾義之氏の著書に拠り、なぜ日本語で行われる自然科学が国際化されたのかを考えた。一方、社会科学はなぜそうではないのか、というのが本稿の論点である。
ここでは社会科学は、人間社会を科学的に分析する学問、と定義した。数理モデルで説明しやすい経済学は、社会科学では最も自然科学に近いとされる。なぜ数理で説明しやすいかといえば、経済的利益は万国共通、自明と見られるからだ。
ブラック・ショールズモデルは、オプション価格を計算するために広く用いられるもので、言語学のコンセプトを用いたマッケンジーの議論のポイントは、ポートフォリオのリスク回避手段として実際に利用されるようになった同モデルが、業界用語にどう取り込まれて「より真実化」し、1987年のブラックマンデー以降、逆にどのように「より真実ではなくなった」かにある。つまり同モデルは、市場の様子を写真に撮って広く説明するカメラではなく、それ自体市場を動かすエンジンであった、というわけだ。
マッケンジーの議論は、経済学でさえ無縁ではない社会科学における言語と真実の厄介な関係を明らかにしている。ここでは「真実」(理論)は、基本的に言葉で表現され、同モデルのように数式が存在しても、言語による解説は不可欠である。だが言語自体が社会の構成要素(つまりエンジン)であるため、広く流布された途端に陳腐化する可能性がある。特に損得にかかわる理論は、一部に独占されている間だけ効力を発揮し、多数のものとなればその力を失う危険性を秘めている。金融市場のように「業界用語」が幅を利かせる世界では、利益のある理論は瞬く間に広がってその真実性を証明するが、あるポイントを超えて誰もが知ってしまうと、今度はその知識が社会を変え、「裸の王様」の寓話のように瞬時にその効力を失う。また言語はある社会固有の要素が強く、たとえば金融市場と縁のない人にとっては、ブラック・ショールズモデルはただの記号と数字の羅列以上の意味を持たない。
もちろん同モデルは今でも使用され、マッケンジーは同理論が空論であったとは言っていない。そうではなく、社会科学の「真実」とは社会の中で構成されるため、それが知られること自体が変化を生む。一方自然科学の対象は普通、社会の構成員ではない。だが例えばサルが言葉を解し、生物学者の研究を読んでサルの生態におけるある種のリスクを学んだら、サルの社会に何が起こるだろうか。
社会科学における言語の役割は自然科学よりはるかに大きい。そして基本的には、それぞれの社会は独自の言葉と独自の理論で分析されたほうが精度は高い(もちろん、エンジンとして働く可能性も)。この意味では、日本語の社会科学が世界を変えることはないだろう。だが一方で、多言語が共生するグローバル化社会では、日本語の社会科学も、ヒンズー語やスワヒリ語と同様に、世界を分析する一助となることは間違いない。すると、社会科学の国際化はどうすればなされるのかという答えは、ある程度見えてこないだろうか。
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