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人が殺人者や暗殺者になる時 暗殺の世界史入門その8

Japan In-depth / 2017年4月27日 21時34分

こう考えてみればよい。

それこそ虫も殺さないような優しいお年寄りでも、時代劇で悪人が斬られるのを見て、快哉を叫んだりすることは、ままあるのではないか。悪人にだって妻子がいるかも知れぬとか、悪代官とつるんで庶民をいじめたかも知れないが、それが殺されるほど悪いことなのか、という風に考える人は、ごく珍しいとさえ言える。これは、悪人を切り倒す主人公に正義があり、自分もまたその正義の側に立っている、と思い込んでいるからこその心理状態なのだ。

これを延長して考えれば、人が自分なりの正義感の権化と化したような場合、人の命を奪うことに対する心理的抵抗など感じなくなってしまう、というのも、納得できる話なのではないだろうか。

そもそもテロルの語源とは、恐怖を意味するラテン語である。

「戦争とは、外交とは異なった手段(=武力の行使)による外交の一形態である」

と述べたのは、かのクラウゼヴィッツだが、これを援用して述べれば、相手に恐怖を与えることをもって自らの意志を強要せんとする行為は、すべてテロリズムである。

戦争もテロリズムも、正義という概念によって正当化されている限り、これをなくして行くことは、なかなか難しい。

 

■「テロ」と「恐怖心」

「人の命を奪ってまで実現せねばならない正義など、本物の正義ではない」という理念を世界中の人が共有できるようになれば理想的なのだが、それも難しいだろう。なぜなら、ここまで述べてこなかったが、人の命を奪うことに対する抑制が外れる心理が、もうひとつあるからだ。

それは、恐怖である。

相手を殺さなければ自分が殺される、という状況に置かれたり、もしくはそのように信じ込んだ場合、誰もが容易に殺人者となり得る。

現在テロを繰り返す側も、逆に「テロとの戦い」を続けている側も、相手をこの世から消し去らない限り安心して暮らせない、といった恐怖心に取りつかれている。

だからこそ、お互いに正義の旗印を掲げての殺人の連鎖を絶つためには、暴力以外の手段による「本当のテロとの戦い」を、粘り強く追及して行かねばならない。

迂遠で非効率的な考えだと反論されるかも知れない。しかし、暗殺・テロという手段によって、より平和で豊かな社会が実現した例が歴史上ひとつでもあるか、と私は問いたい。

テロリズムや紛争が、本当は人の心の問題であるのなら、やはり暴力とは異なる手段で立ち向かわねばならないと、私は考えるのだが、どうだろうか。

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