1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. スポーツ
  4. スポーツ総合

私のパフォーマンス理論 vol.37 -注意の向け方について-

Japan In-depth / 2019年10月5日 7時0分

この起こしたい動きと、それを引き出すボタンの関係性を理解するには、あちこちに注意を向けることを繰り返すしかない。陸上競技は反復行為がほとんどだが、やろうと思えば全ての走りで注意を向ける場所を変えることもできる。注意を向けた先と動きの変化を観察し、そこから法則を学ぶ。私がある型を教えるのではなく、一見競技と関係のなさそうな動きを進めるのはこの関係性の理解をしてほしいからだ。身体の図式が出来上がり、どこがどこに影響しているかが理解できれば、出したい動きを出すことができるようになる。決められた動作しかできないようにプログラミングされた選手は、成長や老化によって自分という個体の条件が変わった時に、再適応できなくなる。注意の向け方が中途半端な選手は、反復が文字通りただの反復にしかならず関係性が理解されない。


 


注意を邪魔するものはたくさんある。そもそも注意がどこに向くかは意識的な世界と、無意識の世界がせめぎあっている。よく走高跳や走り幅跳びで選手が試技の前にいろんな動きをするが、あれなども注意を向ける先を絞っている効果がある。気が散るとは注意が動いてしまうことだ。自分の注意が何によって引きずられやすいのかは観察して理解しておくといい。それを使って注意を扱うことも、またそれを避けて注意を高めることも可能だからだ。


 


細部に注意を向け続けると、次第に全体に歪みが生じることがある。いわゆる視野が狭くなりブラインドスポットができる状況だ。だから競技者は注意を細部に向ける時と、全体を見る時を繰り返す必要がある。虫の目、鳥の目とも言えるか。私の考える注意の向け方には、三種類ある。見る、観る、眺めるだ。後半に向かって徐々に俯瞰が強くなる。


見るは、自分も対象物もはっきりしている。注意を向ける先も明確だ。観るは、注意を向ける先がぼんやりしている。三人目の前にいて、三人の動きをぼんやり追う時などは観る動きに近い。焦点を合わせずぼんやり中央を観ている。眺めるはさらに距離を取り、眺めている自分自体もぼんやりさせる。どこかに注意を向けるというよりも佇んでいるというのに近くなる。ぼーっと海を眺めている時に、携帯が鳴ってハッと我に帰るときがある。あの時の自分と海の関係性が曖昧に漂っている状態、あれが眺めるに近い。


見るは細部に注意を向けるのに適していて、観るは全体の動きに注意を向けるのに適している。眺めるは、全体の中からある要点を抽出するのに似ている。見るは上手くなるが行き詰まる。観るは自然だが具体的ではない。眺めるは難しいがいきなり要点を掴める。余談だが、引退してコメントをする職業をするときはこの眺める感覚がとても近い。自分も対象も社会の空気もあるべき意見も一旦捨てて、ぼんやりとしながら中空からいきなり要点を掴む。そうすると隠れた見方が出てくることが多い。


 


動きの際の注意の向け方は難しいが重要だ。パフォーマンスとは動きであり、動きとは連動だからだ。連動するものは中心点が瞬時に変わっていく。いやないとも言える。この変わりゆく動きのどのタイミングのどこに意識するかでパフォーマンスは変わる。時にはそれが身体を外れ中空のどこか一点というときもある。身体を外れたところに注意を向けたほうが結果として身体を上手く扱えることもある。動きでは一点に注意を向け続けるよりも、ぼんやりとしたイメージに注意を向けていたほうがうまくいくことが多い。私は、川で平たい石を投げて水切りをするが、あのようなイメージで自分の走りを捉えていた。注意を向ける先は身体の部位ではなく抽象的な動き自体だった。


 


注意は地味だが威力がある。注意を扱うことが癖づいた人間は、何を観察させても学べるようになる。


  

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください