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新しい年の日本の国難、そして皇室 その2 アメリカが考えた日本の皇室

Japan In-depth / 2022年1月14日 12時13分

この衝撃的な言葉を聞いたときの自分自身の動揺はいまも忘れられない。日本国憲法を書いた日本占領のGHQの民政局次長でアメリカ陸軍大佐だったチャールズ・ケーディス氏が直接、私に語った言葉だった。





日本国憲法の草案が1946(昭和21)年に占領米軍によって書かれた経緯はいまではもう広く知られている。





当時の日本の占領統治の当事者は「連合国軍」と公式には呼ばれていた。だが実際には主体は米軍だった。GHQも米軍の最高司令官、つまりダグラス・マッカーサー将軍の指揮下にあった。





GHQは1946年2月、急遽、日本の憲法案を作成した。「急遽」というのは、マッカーサー司令官は当初、日本の新憲法を日本側に自主的に書かせることを指示していたが、その草案が出来上がったのを見て、不満足と断じ、それではアメリカ側が作るという決断を下したからだった。









▲画像 GHQビルの前で、日本人女性とアメリカの兵士。 出典:Photo by Getty Images





GHQは当初、日本の幣原喜重郎内閣に憲法草案の作成を命じた。同内閣では国務大臣で著名な法律家だった松本烝治氏が草案づくりの中心となった。完成したその草案は「松本試案」と呼ばれた。





だがGHQは「松本試案」に猛反発したのである。





「松本試案」は甲案、乙案など複数あったが、天皇については大日本帝国憲法が「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあったのを「天皇ハ至尊ニシテ侵スヘカラス」と変えるという範囲だった。帝国憲法が「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあったのを「日本国ハ万世一系ノ天皇統治権ヲ總攬シ此の憲法ノ條規ニ依リ此レヲ行フ」と変えただけだった。





さらに「松本試案」には「天皇ハ軍ヲ統帥ス」という一条もあった。大日本帝国と死闘を繰り広げたアメリカがそんな日本の存続を許すはずがなかった。アメリカ側からすれば、「松本試案」は大日本帝国憲法と主要な変わりはないという解釈だった。だからこそ即座に排除して、GHQ による独自の憲法草案の作成を急いだのだった。





(その3につづく。その1。全5回)





**この記事は日本戦略研究フォーラム2022年1月号に載った古森義久氏の論文「新しい年の日本の国難、そして皇室」の転載です。





トップ画像:日本に到着したダグラス・マッカーサー将軍(1945年8月30日) 出典:Photo by © CORBIS/Corbis via Getty Images




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