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青山ツインビルのこぼれ話(小説)

Japan In-depth / 2023年3月17日 15時0分

青山ツインビルのこぼれ話(小説)


牛島信(弁護士・小説家・元検事)


【まとめ】


・若い女性から男女関係の相談があった。男性は著名な実業家だった。


・女性はその男性から500万円の誕生祝を「返してくれ」と言われて困っていた。


・男と女の違いということではない。誰にでも起こることに違いない。自分だけの勝手な常識で判断すると危ないということだ。


 


 


32年の間に14回の引っ越しをして、それから14年後に久しぶりの引っ越しをし、それを最後に、もう28年の間、引っ越しというものをしていない。


しかし、仕事をする場所、人生の主たる時間を過ごす場所の移転は、何回かあった。


1985年に、それまでのアソシエート弁護士として働いていた丸の内のAIUビルから青山ツインタワーに独立した弁護士として事務所を構え、2004年に山王パークタワーに移転した。それぞれが20年ほどになる。山王パークタワーにはまだまだいることだろう。


青山ツインタワーではこんなことがあった。


ある日、若い女性が電話をしてきて、相談したいことがあるという。男女関係に絡んでのことのようで、本来私が関与すべきビジネス上の案件とも思えなかった。それでも私がその女性に会うことにしたのは、相手の男性が世間に広く知られた会社のトップであるのみならず、経営者の団体の首脳も務めている著名な実業家であったうえにコーポレート・ガバナンスの分野で大いに発言力を持った方だったからだ。すでに老年の域に入りつつあるその実業家は、ビジネスの分野では広く知られた名家に連なる方で、私も面識のある方だった。


女性の相談は、その老実業家との男女関係にかかわることだというのだ。


事務所に来ていただいてお会いしたその女性は、とくに派手な印象もなく、ごく普通の容貌と良い環境で育ったことをうかがわせる言葉遣いの持ち主だった。独身で結婚歴はないとのことだった。たぶん20代の後半くらいの年齢で、ぼーっと太い眉に細く切れ長の目をした、昔の日本なら流行ったにちがいない顔をしていた。


或るとき新幹線に乗っていて、網棚の上に荷物を上げようとして苦労していると近くの席に座っていた紳士が、当たり前のことのようにごく丁寧な物腰でその女性の大きくて重い鞄を網棚に持ち上げて置いてくれた。その偶然のできごとが始まりだったという。


グリーン車だった。


荷物を網棚に持ち上げてやったことをきっかけにその紳士は、たまたま空いていたその女性の隣の席に移ってきて、積極的に女性に話しかけてきた。初めに、自分がなにものであるか、すなわち上場している広く知られた食品会社のオーナー社長だという自己紹介があったのだそうだ。


「私の会社の商品、ご愛用になっていますか」


といった調子で、老紳士がリードしながら二人での会話は大阪に向かう新幹線の車内でスムーズに進んでいった。


老紳士は地味なスーツにブルーのワイシャツ、そして赤が主体になった明るいネクタイを身に着け、同じ布地のポケットチーフを胸にさしていた。


女性が、「すみません、私、その製品、飲んだことないんです。」


と答えると、


「おや、そうですか。それは残念。


あなたのように素敵な方にはぜひ愛飲していただきたいんですがねえ。


私からあなたに差し上げてもいいですか」


と微笑んだ。


「えっ、そんなこと、結構です。申しわけないですから。」


と女性が反応すると、待ってましたとばかりに、


「あなたにこうしてお会いしてウチの製品のお話をさせていただいたのも、なにかのご縁です。


失礼でなければ、ぜひ」


そう老紳士は穏やかな声で、女性の目をじっと見つめながらもう一度微笑んだ。


それが始まりだった。


相手の視線がたびたび自分の顔の上でとまる。彼女としては目のやり場に困ってしまって、男の胸のポケットチーフにふと気づいたようにして、「素敵な色ですね」と褒めると、「いやー、そいつはありがとう。あなたのような方に褒めていただけるとはうれしいかぎりですよ。私は若くなくなってしまったので、こうした明るい色のものを身に着けることで、自分自身の気持ちを引き立てるようにしているんです」


と言って、胸から、ごく自然にすっとチーフを引っ張って外すと、


「ほら、こんな風にして形を作るんですよ」


と、左手の親指と4本の指とで小さなくぼみを作ってみせた。


そのくぼみに大きく広げて平らになったポケットチーフの中央部を差し込むと、右手の人差し指と中指を使って、左手のくぼみに押し込む。


「こうやって、もっと押し込む。すると、ほらこんなふうにチーフが指の間からはみ出してくる。そいつをつまんで少し引き出してから、一番下になる部分をほらこうやって右手でつかんで折りたたむんです。」


と、左右の手を少し上げて彼女の目のまえに突き出すようにして、実演してみせる。


「ほら、そのまま折りたたんだ側を下にしてスーツの胸ポケットに押し込むと、ごく自然な感じでポケットチーフの出来上り!という次第です」


そう言うと、男はポケットチーフを差し込んだスーツの左胸を女性に示すように、大きく体を右にひねって、上半身全体を女性のほうに向けた。微笑を絶やさない。


「へえ。自然な感じでとってもきれい。簡単なんですね、知りませんでした」


女性がおもわずそう口にすると、


「ありがとうございます。」と小さな声に出してから、


「これ、フランス人の友人、といっても仕事上の友人なんですがね、すっかり仲良しになった男がいて、その男からワインを飲んでいるときに教えてもらったんですよ。」


一瞬の沈黙が流れる。男が続けた。


「その男、ジャン=クロードっていう名の男なんですが、とってもワインが好きなんです。でも白しか飲まない。膨大な白ワインのコレクションを持っていて、自宅には入らないので、凱旋門の近くにある行きつけのレストランに頼んで預かってもらっている、っていうくらいなんですよ。


その男が、そのパリの行きつけのお店で二人で食事をしているときに、こうやるんだって教えてくれたんです。ふふっ」


新大阪で別れるときに食事に誘われた。それで出かけて行った。


そうしたことが何度か続いて、そのたびに高価なプレゼントを贈られた。


何回目だったか、


「今日はお誕生日ですよね。


特別な趣向でお祝いしましょう」


と男が言い、女性は男にいわれるままに、男が用意していた夕食のテーブルについた。


「でも、それって、赤坂プリンスホテルのスウィートだったんです。」


彼女が言ったのは、丹下健三が設計した建て替え以前の赤坂プリンスホテルのことである。


ロビーで会ったとき、夕食をスイートルームで特別にセットしてあると言われた。男がなんのためらいもなく女性の横に立って、座って待っていた女性が立ち上がるのをうながすように待って、立ち上がった女性といっしょにエレベータのほうへ歩いてゆく。


「え?と、ちょっと思ったんです。でも、もうなんどもお会いしているし、とてもお高いプレゼントをいくつか、一個何十万円もする時計やネックレス、ブレスレットなんかをいただいていたので、なんとなく嫌ですなんて言えなくて」


「で、黙って付いていった?」


弁護士である私は、下を向いたまま小声で話し続ける彼女に、たずねた。


「はい。」


「スイートルームの応接室部分にテーブルがしつらえてあって、ウェイターの方が二人、立って待っていました。二人ともあの方が偉い方だからか、とっても礼儀正しくて少し緊張しているのがわかりました。すぐあとで知ったんですが、そのうちのお一人はソムリエだったみたいです。」


「で?」


私は彼女に先を促した。悪い予感がしたのだ。


<きっと、その部屋で食事をした後に男女のことになって、それを理由になんらかの金銭の請求をしたい、といった話になるんだろうな。


それにしても、新幹線で荷物を差し上げてあげる網棚に上げてあげたのを機会に、あの中西さんがこの女性とねえ>


私は、たぶんこの女性の依頼を受けることはないだろうと思いながらも、あの著名人である中西令三氏のプライベート・ライフの一面を垣間見たことへ、ビジネスの弁護士として興味を抱いてはいた。


「私、そんな場所でそんなふうにお食事したことなかったものですから、すっかり緊張してしまって、それで」


「それで?」


「少し飲み過ぎてしまったみたいなんです。


ですから、あの方が『誕生日のお祝いです。受け取っていただけますか』っていいながら、小さな花束がそえられたジュエリーのお店の小さな包み紙を出されたとき、もう、なにがなんだかわからなくなっていました。


ええ、いただいたんです。持って帰りました。


私が、『私、ちょっと気分が悪くなってしまったみたい』と申し上げたら、食事の途中だったんですが、あの方が急いで車を呼んでくださって、そのまま自宅へ戻りました。」


「ほう。それで、それからなにかあったんですか」


「はい。ご相談はそのことなんです。


誕生日から2か月ほどして、あの方から連絡があって、『あの時の誕生祝は返してほしい』と言ってこられたんです。


すこしびっくりしました。


先生、私、お返ししなければならないんでしょうか。」


私はことの成り行きに少なからず驚いた。


返してほしいと言い出した中西令三氏にである。


「ほう、その誕生祝というのは、なにでいったいどのくらいするものだったんですか?」


「大きなダイヤがついた、プラチナのネックレスです。


ハリーウィンストンのものですから、500万はするかもしれません。」


私はまた驚いた。中西令三氏の金銭感覚にである。


私の目のまえに座っている女性は、もちろん、蓼食う虫も好き好きだろうが、日本人女性としては古風な顔立ちの方だった。なぜ中西令三氏が目の前のこの女性にそれほどの贈り物をしたのか、理解できるはずもない。


中西氏はいったい彼女との間でどんな関係が発展することを望んでスイートルームでの夕食を手配し、500万もする誕生祝を用意したのか。


もちろん中西氏は私などよりもはるかに金持ちである。おそらく私の何十倍もそうだろう。


それにしても、500万である。いったいなにがあったがゆえに中西令三氏はそんな贈り物をしたのか。


そのうえ、なにが中西氏に「返してくれ」と言わしめたのか。中西氏としては、どこかに不当なことが起きているという思いがあるからゆえの返還要請なのだろう。しかし、なにが不当だと思っているのか。そんなこと、男がいったんプレゼントしたものについてすることがあるだろうか。


法的にいえば、履行済みの贈与である。民法550条に解除できないと定められている。


私は、とにかく依頼を引き受けることはしないなと思いながら、


「私が弁護士として関与することではないと思います。


中西さんには、いただいたものはお返ししなくてよいはずです、とでも言っておけばよいでしょう。


そこでなにか問題になれば、私が知り合いの信頼できる弁護士さんご紹介します。」


とだけ言って、その女性には引き取っていただいた。


たぶん彼女の話には語られていないなにかがあって、それで中西礼三氏は贈り物を返してほしいといわないでいられなかったのだろう。私は弁護士としての経験からそう想像していた。合理的でないことはこの世では起きない。不合理なことが起きているように見えるときには知らないなにかが隠れているものなのだ。それは中西氏の心のなかで、ふだんの生活で身勝手さをとおしていることから、そしてそれは経営のトップとして大切なことでもあるのだが、彼女との間にこころが通じていると決め込んだ可能性も含んでいる。対等な人と人との関係は、力のある者にはなかなか実感しにくいことなのだろう。


「先生、分かりました。


でも、私、悔しいんです。向こうから一方的に近づいてきて、私が欲しいといったわけでもないのに贈り物、それもとっても高価な、私なんかには手の出ないような贈り物をして、そのあげく返せだなんて、馬鹿にした話ではありませんか。


私、中西令三という人に他人を馬鹿にするのもいい加減にしろって思い知らせてやりたいんです。だから、先生のような力のある方にお願いしたかったんです。


でも、分かりました。」


帰り際、彼女は思いがけないことを口走った。


彼女の側にしてみれば、そういうものかもしれない、人の心というのはむつかしいものだ、としみじみ思い知った小さな挿話である。


私は、いつもの習慣でエレベータホールまで彼女を見送って頭を下げ、ドアが閉まってから頭をあげながら、もう一度考えた。


<男と女の違いということではないんだろうな。誰にでも起こることに違いない。自分だけの勝手な常識で判断すると危ないということだ。


それにしても、中西令三氏はいったい彼女になにを期待していたのだろうか。>


今でもときどき思い出す。


中西令三氏はもう10年以上前に亡くなってしまったし、そもそも私から尋ねることができるようなことでもない。幸い私はそういう立場にも立たなかった。


それにしても、なにか語られなかった事実が隠されているのだろうか。


青山ツインタワーではいろいろなことがあった。


今回の話は、フィクションではあるが、材料がないわけではない。十分に加工されているので、誰にもなんのことかわからないだろうと思っている。中西令三氏は、本名を言えば、あああの方というほどに著名な方ではあった。女性のその後は知らない。


(了)


トップ写真:イメージ 出典:Kazuhiro Nakamura/AFLO


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