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NYに突然の段ボール箱・・・樋口廣太郎さんの熱意 「高岡発ニッポン再興」その81 

Japan In-depth / 2023年5月24日 11時0分

私はその後、松江支局に赴任しましたが、樋口さんはわざわざきてくれました。当時は社長を退き、会長に就任していました。今でも覚えているのは、こんな言葉です。


「人間には旬の時期がある。私は今、65歳。70歳までが旬だと思っている」。その言葉通り、樋口さんは、総理大臣の私的諮問機関、防衛問題懇談会の座長に就任しました。


そしてその翌年には、経団連副会長に就任。さらには、1998年には日本経済全体のかじ取り役を担う経済戦略会議の議長に就任したのです。小渕恵三総理の諮問機関です。経済戦略会議は日本の経済危機を克服するため、つくられました。


樋口さんは戦略会議の前後1年ほどで、テレビ出演や講演などを200回近くこなし、戦略会議の活動をアピールしました。持ち前の明るさで、本音でトークする姿は、異色の財界人として、人気がありました。


ちょうどこのころ、私は時事通信のニューヨーク支局で勤務し、ウォール街を取材していました。日本の金融危機はアメリカでも大きな関心事でした。空前の好景気を謳歌していたアメリカにとって最大の懸念材料は、金融危機に苦しむ日本経済だったのです。


ニューヨーク・タイムズは1998年10月5日、1面トップで「日銀の速水総裁がルービン財務長官らに日本の大手銀行の自己資本が危険なほど低い水準になったことを伝えた」と報じました。ウォール街でも激震が走った。


米連邦準備制度理事会(FRB)が10月16日に緊急利下げに踏み切ったことについても、「邦銀の経営危機が背景ではないか」という思惑まで飛び交っていました。


世界が注目する日本の金融危機の真っただ中に、私はニューヨークからもしばしば樋口さんに連絡を取っていました。忙しい日々を送りながらも電話口に出てくれ、明るい声で「日本経済は大丈夫だ。取材先に伝えてくれ」と言っていました。


戦略会議は1999年2月、構造改革を訴え、日本再生シナリオが盛り込んだ最終答申を発表しました。それからしばらく経って、時事通信ニューヨーク支局に大きな段ボールが届きました。差出人は樋口さんです。英語版の経済戦略会議の報告書50冊が入っていました。


箱の中には「日本経済は必ず、再生する。これを是非、アメリカの金融関係者に配ってくれ」というメッセージも入っていました。私はそれをアメリカの金融関係者に配りました。


記者というより、「日本経済は再生する」という樋口さんの熱意に共鳴したのです。


樋口廣太郎さんは2012年に死去していますが、私にとって教えていただいたことは、社会人としての原点です。樋口さんに恥じない仕事を続けたいと思っています。


トップ写真:アサヒビール本社 出典:GrTgory RENAULT/GettyImages


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