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「セメント王」浅野総一郎物語⑥ 西南戦争の混乱で「石炭ショック」

Japan In-depth / 2023年7月22日 18時0分

「セメント王」浅野総一郎物語⑥ 西南戦争の混乱で「石炭ショック」


出町譲(高岡市議会議員・作家)





【まとめ】


・明治10年、横浜で石炭相場が急騰。「石炭ショック」起きる。


・浅野は渋沢栄一の後ろ盾を利用し吸収で大量の石炭の落札成功。


・この一件以来、浅野総一郎は横浜で有名になった。


 


浅野総一郎は明治10年2月、渋沢栄一に出会って最初のチャンスをつかみました。29歳でした。長女マツは1歳5カ月。ヨチヨチ歩きしたばかりです。幼子を抱えながら、妻のサクは半年後に出産を控え、大きなお腹だった。家族そろって夕食を食べていたとき、総一郎は真剣な顔で話し始めた。


「妊娠中で悪いが、明日、長崎に向けて出発する。陸路で行くので、家を長期間開けることになるが、許してくれ。石炭商としては大勝負だ。いや横浜や東京の経済を支えるためにも、行かねばならない」。


「私やマツのことは心配しなくていいのですが、どうしたのですか」。


「横浜では石炭不足が深刻なっているので、俺は長崎に行って石炭を調達しようと思っている。今の日本はひどい状態だ。明治政府は西南戦争で西郷隆盛を征伐するため、九州に政府軍を送り込んだ。その結果、船不足で、各地に石炭が届かなくなっている。冬の時期に、石炭が不足するのは、一大事だ」。


サクは心配になった。「でも全国から石炭商が殺到しているでしょう。勝ち目はあるのですか」。


「渋沢さんの紹介状をもっているので、勝算ありだ」。日本最大の汽船会社、三菱商会は、保有する38隻の軍事輸送用に政府に差し出した。総勢7万に及ぶ政府軍の兵士や武器を九州で運搬したのです。石炭を積んでいた船までも差し出された。当時の石炭は九州産が多く、海上輸送が途絶えるのは、大きな痛手となります。


横浜では石炭の相場が急騰した。室内の暖炉用の石炭にトン8円50銭から10円という高い値段がつきました。居留外国人に至っては、トン17円で買うケースもありました。在庫不足が顕著になると、石炭商は売りに出さなくなりました。まさに、横浜、そして東京は石油ショックならぬ石炭ショックに見舞われていたのです。


サクは続けて聞いた。「でも船がないのに、長崎で買い付けた石炭をどうやって、横浜まで運ぶのですか」


「三菱が独占的に海運を仕切っているのだが、さすが渋沢さんだ。どこから調達したのか船を用意してくれている。それに紹介状もくれた。きっと競り落とせると思う」


「わかりました。旅では体に気を付けてください」


この晩、サクは総一郎の旅支度を整えました。2月でまだ寒さが厳しい中、総一郎は早朝4時に起床。朝食を取り、朝ぶろに入った後、いざ出陣。渋沢栄一の紹介状を持って陸路で長崎に出向きました。1円札を100円分ずつ袋に入れて、何袋も持参。道中、盗人に狙われないように最大限警戒しました。無事、長崎に到着しました。全国各地の石炭商が集まっており、激しい競争となりました。


最終的には神戸の石炭商と一騎打ち。


外国人居留地をかかえた「横浜」と「神戸」。東西の両横綱です。引くに引けない戦いとなり、値段が吊り上りました。


ついに総一郎が落札したのです。手に入れた大量の石炭は、渋沢が用意してくれた船を使って長崎から横浜まで運ばれた。総一郎は、横浜ですぐさま石炭を売り切り、数万円の巨額の利益を手にした。渋沢栄一という後ろ盾を利用したのは、これが最初です。


この一件以来、総一郎は横浜で有名になった。明治10年9月1日に次女マンが誕生しました。公私とも充実した生活を送ったのです。


(⑦につづく。①、②、③、④、⑤)


トップ写真:東京の高輪鉄道を走る蒸気機関車のイラスト(東京駅)歌川国輝作 1873年 


写真:Photo by Heritage Art/Heritage Images via Getty Images


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