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「競馬は人生の比喩ではない。人生が競馬の比喩である」 文人シリーズ第3回「アフォリズム(比喩)の天才 寺山修司」

Japan In-depth / 2024年4月12日 14時31分

伯母がつづけた。これは、ちょっとしたショックだった。





(俺は祖母の博奕好きを、隔世遺伝で引き継いだのではないか)





そう確信したからだ。祖母は私が生まれる前に他界していて、私は顔も知らない。





時代は戦前、昭和の初めごろのことである。未亡人の賭場通いなんて、当時ならアンモラルもいいところ。しかも、東北のひなびた温泉郷だ。華やかなラスベガスの話ではないのである。薄暗い裸電球の下で、血走る目の男たちに交じる紅一点の祖母、花札を握る手が白い――想像すると、頭がくらくらしてくる。





もちろん、祖母がそう大きな賭けをしていたとは思えない。僅かな小銭くらいのことだったろうけれど。





それ以来、私は実家の墓参りをするたびに、墓石に刻まれた祖母の戒名を、いわく言い難い思いで眺めるようになった。





寺山のアフォリズムにもどる。





「私は、前科者たちに『追込み』好きが多いことに気がついた。それも、中団から追込むというのではない。松山厩舎(*)好みの、後方一気というやつである。なぜ、追込みが好きかということは、彼らの人生と考えあわせてみると、よくわかる。早いうちに、(つまり、人生の第一コーナーあたりで)挫折してしまった連中にとっては、もはやハナに立って逃げるのは不可能なことだからである。」(『馬敗れて草原あり』新書館)





私も人生の向こう正面あたりでけつまずいた。そのときから自分は「逃亡者」となったような気がする。逃げ馬である。だけど、今は、追い込み型に脚質を変えた。後方一気の追い込みで勝利のゴールにいつしか飛び込もうと願うからである。でも、競走馬で、逃げ馬が追込み馬になって大成した例を、寡聞にして聞かない。





「競馬は人生の比喩だと思っているファンがいる。彼らは競馬場で薄っぺらの馬券のかわりに『自分を買う』のである。(中略)だが、私は必ずしも『競馬は人生の比喩だ』とは思っていない。その逆に『人生が競馬の比喩だ』と思っているのである。この二つの警句はよく似ているが、まるでちがう。前者の主体はレースにあり、後者の主体は私たちにあるからである。」(前掲書より)





私はこのアフォリズム「人生が競馬の比喩だ」にしびれたひとりである。60年前の春、上野駅に降り立った集団就職の子どもたち「金の卵」は、いましずかに、人生の比喩であるレースから退(ひ)こうとしている。





「サラブレッドは死にむかって走る」。これは寺山のアフォリズムではない。私の畏友、大井競馬場の名物予想屋の警句である。





脚註





*松山厩舎は3冠馬ミスターシービーを育てた厩舎として知られる。ミスターシービーはつねに4コーナーどん尻からの猛烈な追い込みで勝利し、大変な人気を呼んだ名馬である。





トップ写真:イメージ ※本文とは関係ありません 出典:Lo Chun Kit /GettyImages




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