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赤狩りと恐怖の均衡について(下)「核のない世界」を諦めない その5

Japan In-depth / 2024年5月1日 11時0分

大体、本シリーズでもすでに見たが、赤狩りの実態などいい加減きわまるもので、ソ連邦崩壊後に暴露された秘密文書によれば、本物のスパイ=諜報機関のメンバーは、ただの一人も摘発されなかった。





それよりなにより、バグウォッシュ会議が早々に迷走してしまった最大の理由は、核抑止論が力を得てきたことである。





米ソ両陣営が同等の核戦力を持つことは、むしろ戦争抑止力になり得る、という考え方で、具体的にどういうことかと言うと、米ソのいずれかが核兵器による先制攻撃を行っても、相手方に核による反撃能力が残れば、最終的には相撃ち共倒れとならざるを得ない。





こちらが核を使えば相手も使う、という恐怖こそ開戦を躊躇させる最大の力だ、というわけで、別名「恐怖の均衡」とも呼ばれる。





わが国においても、核武装論をとなえる人たちが書いたものを読んでみると、大半がこの恐怖の均衡を信奉し、核抑止論こそが国防理論の王道だとの信念が窺える。





典型的な例が、キューバ危機の総括だろう。





1962年10月14日、キューバ上空を偵察し飛行していた米軍のスパイ機が、ミサイル基地を発見。CIA(中央情報局)は写真の解析や諜報活動の結果、ここには米国の主要都市の大半を射程に収める核ミサイルが配備されているとの報告書が、16日付でホワイトハウスに提出された。時の大統領は当選間もないジョン・F・ケネディである。





さかのぼること3年、1959年1月にフィディル・カストロ、エルネスト〈チェ〉ゲバラらに指導されたキューバ革命軍は、フルヘンシオ・バティスタを首班とする親米軍事独裁政権を打倒。革命政府の樹立に成功した。





カストロは当初「全方位外交」を目指し、訪米して革命政府の承認を求めたりもしたが、当時のアイゼンハワー大統領は、にべもなく拒否。彼らからすれば「合衆国の裏庭」であるカリブ海に、反米左翼的な政権が樹立されるなど、あり得ない話だったのである。





副大統領リチャード・ニクソンの進言を受けて、亡命キューバ人から成る「解放軍」を組織し、敵前上陸させる作戦まで実行された(ピッグスワン事件。1961年4月)。





この作戦は、同年1月に大統領に就任したケネディが、正規軍の介入を拒否したこともあって完全な失敗に終わったが、彼はただちにキューバに対する経済制裁を実施し、両国の関係は、幾度か改善の兆しは見られたものの、現在も冷戦構造を引きずったままだ。





このような背景から、当時のソ連邦共産党議長ニキータ・フルシチョフはキューバに核ミサイルを配備するとの決断を下すに至ったとされる。





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