「関節炎を治した秘薬 レモン・ドロップ」文人シリーズ第4回「ブロードウェイの哀歓を描く デイモン・ラニアン」
Japan In-depth / 2024年5月8日 13時10分
斎藤一九馬(編集者・ノンフィクションライター)
「斎藤一九馬のおんまさんに魅せられて55年」
【まとめ】
・米国の名馬「レモン・ドロップ・キッド」は、デイモン・ラニアンの小説のタイトルでもある。
・レモン・ドロップ・キッドは「コーチ屋」と呼ばれる予想屋だった。
・この小説、最後のどんでん返しがたまらなくいい。ぜひ読んでいただきたい。
今、JRA(日本中央競馬会)で走るダート競走馬でもっとも速い馬の一頭に、「レモンポップ」という愛らしい名前の6歳馬がいる。父親は「レモン・ドロップ・キッド(Lemon Drop Kid)」という名のアメリカの名馬(牡・1996年生まれ)である。
レモン・ドロップは誰でも知っている甘酸っぱいレモン味の飴玉(ドロップ)のことだが、酒好きな方はウォッカベースの香りのよいカクテルを思い浮かべるかもしれない。
だからといって、レモン・ドロップ・キッドを「レモン・ドロップが好きな男の子」と早とちりしないでもらいたい。これから紹介するのは、甘酸っぱいどころか、うさん臭さをたっぷり帯びた「コーチ屋」という商売を生業とする男の話だ。
米国のクラシック3冠レースのひとつ「ベルモントステークス」を制したほどの名馬である「レモン・ドロップ・キッド」。実はこれ、1930年代のアメリカの小説のタイトルでもあるのだ。作家は、デイモン・ラニアン(1984~1946年)。元新聞記者で、小説家に転身して、 ニューヨークのブロードウェイを舞台としたペーソスあふれる短篇小説を数多く発表した。作品は映画化や舞台化もされたが、日本ではさほど知られていない。作風はオー・ヘンリー(1862~1910年)あたりを思い出してもらえればいい。
私は、そのラニアンの数あるブロードウェイ物の中でも、この「レモン・ドロップ・キッド」がいちばん好きだ。愛馬に「レモン・ドロップ・キッド」と名づけたアメリカの馬主も、きっとこの物語のファンだったのではないか・・・・・・。
2年ほど前、日本でレモンポップが活躍し始めたころ、その父親の名がレモン・ドロップ・キッドと知って、まず思い浮かべたのがこの短編小説であった。その冒頭を少し引用する。
話を四、五年前の八月の午後に持っていくよ。そして、場所はサラトガ競馬場―ニューヨーク州でもいちばん気分のいい眺めのところさ―そして人間はレモン・ドロップ・キッドという名の若い男だが、なぜこの若い男が「レモン・ドロップ」キッドと呼ばれるかというと、上着のポケットにレモン味のドロップの小袋を入れ、それをいつも口の中でかりかり噛みくだいているからなんだ。レモンのドロップは当時みんなに愛好されてたキャンディーの一種だよ。(中略)
さて、さっき言った八月の午後のことだが、レモン・ドロップ・キッドはこの競馬場で商売の相手を物色していて、それがどうもうまくいかないところだ。彼の商売というのはお話を聞かせることなんだが、そのお話を聞いてくれる客がなかなか見つからないというわけだ。(『ブロードウェイの天使』【新潮文庫・加島祥造訳】の第4話『レモン・ドロップ・キッド』より)
ここで言う「お話を聞かせる」人とはレースの「勝馬を教える」という詐欺的話術師のことで、日本では「コーチ屋」と呼ばれた予想業界の古典的な職業だ。勝馬の予想を客に教えて、当たったら謝礼、コーチ料をもらう。Aという客には1番の馬が来ると教え、Bという客には2番の馬が勝つと囁き、Cという客には3番の馬が頭で固いと断言する。もし3番の馬が来たら、Cからコーチ料をせしめる。出走頭数の数だけ客を見つければ、どれかは的中する。“鉄壁”の予想技術だ。
八月の午後、彼はサラトガ競馬場で客が見つからず焦っていると、車いすに乗った老人と出会い、小声で話しかける。「痛風ですか?」「関節炎じゃよ。ひざの関節炎だ。ここ3年間一歩も歩けん始末だ」。それを聞いたレモン・ドロップ・キッドはポケットから取り出したレモン・ドロップをその老人に差し出す。老人は手でつまんだドロップを眺め、レモン・ドロップ・キッドを鋭い目つきで睨んだ。
自分はこの関節炎を治してくれた医者には5000ドルやると約束したが、これまで治してくれた者は一人もおらん。薬という薬はみんなインチキだと吐き出すように言うと、意を決したようにレモン・ドロップを口に入れた。「関節炎によく効くよ」とレモン・ドロップ・キッドが囁いたからである。
これ幸いと、彼はその老人をカモにすべく「お話し」を始め、まんまと100ドル紙幣をだまし取り、その場から逃亡する。その後の物語の展開、最後のどんでん返しがたまらなくいい。そこは書かないので、ぜひ読んでいただきたい。競馬を題材に取った小説でベストスリーに入ると思う秀作だ。大笑いし、哀しくなり、そして涙する。
さて、余談になるが、私はレモン・ドロップ・キッドの日本版に会ったことがある。行きつけの飲み屋で知り合った競馬好きの知人に紹介されて、客が誰もいない中華屋の2階で飲みながら話を聞いたのである。録音は許してもらえなかった。
彼の縄張り、つまり仕事場は「南関4場」といって、大井、川崎、船橋、浦和の公営競馬場であった。常にスリーピースのスーツをビシッと着こなし、紳士然として客に笑顔で接近する。稼ぎはというと、4人家族を養うのに十分な実入りがあったそうだ。でも、レモン・ドロップ・キッドのような一匹狼というのではなく、N会という反社団体の下部組織であった。年に一度は、近くの温泉に繰り出して懇親会を持つ。私はそのときの集合写真を見せてもらったが、代貸(だいがし)と思しき人物を中心に30名ほどのコーチ屋が笑顔で納まっていた。でも、コーチ屋自身は“やくざ”ではない。みかじめ料をとられていただけ、といううら悲しい話だった。
その後、彼は足を洗い、夫婦二人で東京近郊の町で床屋を営み、ふたりの子どもを育て上げ、最近ビルまで建てた。ハッピーな大団円である。
さて、われらがレモン・ドロップ・キッドはどんなエンディングを迎えたのか。ちょっとだけヒントを言おう――彼に騙された爺さんの関節炎は、完治した・・・・・・。
写真)「ブロードウェイの天使」デイモン ラニアン (著), 加島 祥造 (翻訳) 新潮文庫 筆者提供)
トップ写真:第64回ケンタッキーダービーを観戦するデイモン・ラニアン
1938年05月07日 アメリカケンタッキー州ルイビル 出典:Bettmann/ Getty Images
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