1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

「日本人」の顔を持つも「1000%ペルー人」だったフジモリ氏

Japan In-depth / 2024年9月23日 18時0分

日常会話には苦労しないぐらいの日本語能力は十分あったが、日本人ジャーナリストが参加した記者会見など公式の場ではめったに日本語を話さず、スペイン語で通したところにも「自分はペルー人」という意識の強さを感じさせた。「私の誕生日は7月28日でペルー独立記念日だ」と誇らしく語っていたのはいかにも、フジモリ氏らしい。





◇ 「日本人」と「ペルー人」を巧みに使い分け?





フジモリ氏の強いペルー人意識と考え方が如実に現れたのが1996年12月に発生した極左ゲリラによる日本大使公邸占拠事件だ。日本政府は一貫して「人命最優先の平和解決」を求めた。日本国籍を持ち、日本との深いつながりのあるフジモリ氏なら、日本的な考え方や価値観を理解できるだろうとして日本側には平和解決への期待感があった。だが、事件は翌年4月のペルー軍特殊部隊の突入による武力解決で幕を閉じた。





フジモリ氏は事件の早い段階から武力解決を決意しており、テロリストへの対応に関しては日本的な甘い考えは微塵もなく、ペルー人としてペルーの政治利益を最優先したことが後に明らかにされた。とはいえ、フジモリ氏が自分自身の日本との特別なきずなを重視し、利用していた面があったことは否定できない。1990年の大統領選に出馬した際には「勤勉、正直、技術」を選挙スローガンにし、浴衣を着て日本刀を振りかざすパフォーマンスを演じ、まさに「日本人の顔」を政治宣伝に使った。





フジモリ氏は大統領在任中の約10年間、20回近く日本を訪問、円借款や無償援助など多額の援助を獲得したが、「日本人の血を引く政治家」のイメージで日本の官界・政財界に食い込み、ファンをつくったことが大きな要因の一つと思われる。





もう一点忘れられないのは、2000年側近の汚職事件で国内での追及が高まると、外遊中に日本に事実上亡命、大統領職を辞任したこと。フジモリ氏が日本国籍を持ち、日本との密接な関係があってこその行動だろう。





5年後には、大統領選への再出馬を目指し日本を出国、チリで身柄を拘束され、2年後ペルーに送還された。その後、市民虐殺事件に絡み、禁固25年の有罪判決を受け獄中生活を送ったことは周知の通りである。





日本でそのまま亡命生活を続けることもできたはずだが、あえて日本を離れた理由について「ペルーを再建するため」と語っていたのはペルー人政治家としての強い思いがあったからに違いない。フジモリ氏は「日本人」と「ペルー人」という2つの顔を巧みに使い分けた異色の政治家だったと言っていいかもしれない。





(了)





トップ写真:ペルー野党が、国家諜報局顧問モンテシノスを巻き込んだ賄賂スキャンダルでフジモリ大統領の退陣を求め、緊急政府の迅速な樹立を要求するなか、大統領官邸の門の上に立ち、彼への支持を表明し、政府を去らないよう懇願するために集まった支持者たちに向かって旗を振るフジモリ大統領(当時)。フジモリ大統領は、新たな選挙を呼びかけ、立候補しないと発表し、10年間の権力の座に終止符を打つとともに、国家情報局を解体すると約束した(2000年9月19 日ペルー・リマ)出典:GettyImages




この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください