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【エンタがビタミン♪】間寛平が“24時間マラソン”を走った本当のワケ。最初は「深夜に10分出てくれ」だった。

TechinsightJapan / 2014年12月16日 21時15分

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間寛平が福岡の久留米商業高校で、就職を前にした3年生に特別講義を行った。彼は地球一周した“アースマラソン”で「何度も死にかけた」体験を語るが、すべての始まりは“24時間マラソン”だったという。そして、今では『24時間テレビ』に欠かせないものとなった“24時間マラソン”が生まれた意外な真相を明かす。

福岡ローカルのバラエティ番組『TEEN!TEEN!』(RKB毎日放送)に、久留米商業高校の教師から「就職が決まった3年生たちに厳しい社会を生き抜くヒントを教えて欲しい!」と依頼があり、福岡よしもとのタレント・高田課長の案内で大御所の間寛平が講師として訪れた。生徒から“アースマラソン”で過酷な状況をどう乗り越えたのかと質問を受けて、間寛平はまず、マラソン人生を振り返った。

25年前のこと。1978年にスタートした『24時間テレビ 愛は地球を救う』のプロデューサーが、視聴率の低さから番組の存続が危ぶまれることに悩み、間寛平の当時のマネージャーに「寛平ちゃんには悪いけど、深夜に10分だけ出てもらえないだろうか?」と依頼した。すると、そのマネージャーが「10分と言わず、24時間テレビやから24時間走らせましょか?」と答えたのだ。「えっ! そんなことができるの?」とプロデューサーも驚いたが「寛平ならできます」と受けて話は進んだ。1992年に寛平は武道館までの200kmを走ることとなる。

その後、1995年に阪神・淡路大震災が起きた時には、「日本を元気づけよう」と神戸と東京間、約600kmを7日間で走破している。だが、ギリシャの鉄人マラソンと呼ばれる“スパルタスロン”で246kmを3度も完走している彼も、年とともに体力が落ちることを実感していた。「60歳までに人類が誰もやっていないことをやろう」と日々考えるうちに、「“地球一周”というのがバーンと降りてきた」そうだ。

“アースマラソン”を成功させるには毎日50kmを走らねばならない。1週間、毎日50kmを走り、体を検査して耐えられるかを試した。その次は、10日間、次は15日間と増やして、これなら走れると確信した。

だが、陸はいけても、海はどうするのか? あのマネージャーに相談したところ「太平洋は手漕ぎでいけ」と言うではないか。さすがの間寛平も「死ぬやん、絶対に死ぬやん!」と拒絶すると、マネージャーは「じゃあ、僕がヨットを持っているから」と自分も一緒に乗船すると言い、ヨットで大西洋、太平洋を渡ることとなった。口先ばかりの男ではなかったのだ。こうして準備も整い、2008年12月17日に“アースマラソン”をスタートする。

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