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「自己責任論」が進む日本。本当に自分には関係無いものなのか?

JIJICO / 2017年9月2日 7時30分

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「自己責任論」が進む日本。本当に自分には関係無いものなのか?

日本社会の貧困化は表層の数値より深刻な可能性も

厚生労働省は8月2日、5月に生活保護を受給した世帯が前月より2153世帯多い163万9558世帯となり、2カ月ぶりに増加に転じたと発表しました。今から20年前の平成9年が約63万世帯で10年前の平成19年が約110万世帯であったことを振り返ると、20年前に比べて4倍増、10年前と比べても5割増という推移になります。その間、核家族化・未婚化・少子化が進んだ結果、平均世帯人員数は減少し世帯数は約5%増加していますが、生活保護を受給している世帯数の伸びはそれをはるかに上回っており、受給世帯の割合は全世帯の1.3%から3.3%と2.5倍に増えたことになります。

これだけ受給世帯が増えたにも関わらず、生活保護水準以下の収入しかない人すべてが、等しく生活保護費を受給できているわけではありません。生活保護水準以下の収入しかない人の割合は人口の約13%に上り、実際に生活保護を受けている人はその10分の1程度だという推計があることを見ると、日本社会の貧困化は表に出ている数値以上に進んでいる可能性があります。

過去20年間に、貧困ラインを下回っている人の割合が増えているだけではなく、実は全世帯の所得も低下している状況を前にすれば、「何か世の中の仕組みがおかしいのではないか」「これ以上政治の失敗を放置しておいていいのか」というような疑問が噴出し、国民的議論が大いに盛り上がっても不思議ではありません。ところが、実際にはそうした動きは弱く、むしろ「自己責任論」という視点から、貧困は一人ひとりの選択と行動の結果だという考え方が強まっています。

日本の自己責任論は海外と比べ浮いた考え方

そのような風潮を反映してか、日本では「生活保護を受けることは恥ずかしいことだ」という気持を持つ人が多いために、申請をためらわせているという指摘があります。一方で、行政側も「必要な人に行き渡らせる」こと以上に「不正に受給を目論む人を排除する」ことに力点を置いているために、申請のハードルを高めているという指摘もあります。

どちらの事情も、結果的に生活保護が必要な人が受給しない・できない状況を作りだす原因の一つになっていると考えられます。同時に、二つの立場に共通して、「自己責任論」という考え方が底流していることも分かります。

少し古いデータ(註1)になりますが、国際的な調査によると、「自力で生活できない人を政府が支援する必要性がない」という人の割合が、断トツに高い国が日本であるという結果があります。日本-38% アメリカ-28% 中国-9% イギリス-8% 仏蘭西-8% ドイツ-7%となっています。この調査結果だけで全てを判断する訳にはいきませんが、三人に一人以上の日本人がそう考えているという調査結果があることは事実です。

「自己責任論」という考え方は、貧困問題以外の分野でも出てきます。2004年に起きたイラク邦人人質事件のときには、退避勧告が出ている国へ「自分の意思」で渡航したのだから、拉致されて人質になったとしても「自己責任」だという批判的な意見が、マスコミからも表明されました。最近では、2015年邦人2名がイスラム国に拘束され殺害されたとされる事件のときにも、世間の見方は「自己責任論」に拠るものでした。

2004年のイラク邦人人質事件のときには、自己責任論を楯に拉致した過激派よりも解放された人質に対して攻撃的な論調であった日本のマスコミに対して、海外メディアから批判が集中しました。どうやら、昨今日本で強まっている自己責任論文化は、国際的に見ても目立つようです。

ただし、誤解してはなりませんが、「自己責任論」のすべてが悪いわけではありません。「自己責任」という言葉が意味するところは、「自分がリスクを取って行動した結果については、他人を頼る以前に、まず自分で責任を負う」ということです。私たちが暮らす社会において、こうした「自己責任」をまったく否定し、すべては社会の連帯責任だとしたら、モラルハザードを起こしコミュニティは崩壊してしまうでしょう。

問題は、過失が無かった場合や判断能力が無かった場合について、あるいは人間の生命に関わるようなことについてまでも、バランスを欠いて無制限に自己責任論がエスカレートすることなのです。

なぜ日本では自己責任を問う文化が強いのか?

なぜ日本では、これほど自己責任を問う文化が強いのでしょうか。歴史的に見ると、「村八分」という制裁行為がありました。これは、村社会のルールや秩序を破った者に対して、地域の住民全員が結束して交際を断つ制裁行為ですが、「他人に迷惑をかけること」を極端に忌み嫌う日本文化の特徴を現しています。戦後、欧米的な自由主義や民主主義の考え方が日本に本格的に根付いたように思えますが、実は形を変えて「自己責任論」という姿で、村八分の精神が日本人の心に脈付いていると思います。

ものごとには裏と表がありますが、日本人の美徳とされている「ゴミを捨てない」「礼儀正しい」というようなことも、突き詰めれば「他人に迷惑をかけない」という日本人が昔から持つ精神性の現れです。したがって、「他人に迷惑をかけない」という生き方を簡単に否定することはできません。

日本の経済が成長期にあり、将来に向けて明るい希望が持てる時代は、日本人の多くが心にゆとりがあったために、「他人に迷惑をかけられている」という意識を持つ人が少なかったのですが、バブル景気崩壊後、大半の国民の所得が伸び悩む状況となり、限られたパイを奪い合う感覚が強くなりました。その結果、「他人に迷惑をかけている人」を排斥することで、自分の取り分を正当に確保しようという思いから、自己責任という言葉で非難する人が増えてきたと考えられます。

その意味で、「自己責任論」が強まる社会の根底には、日本人のゆとりが失われた心や将来への不安、「自分は真面目に一生懸命頑張っているのに報われない」といった不満があり、一見すると社会に利益をもたらしていなどころかマイナスになっていると思われる人に対する非難という形で噴出しているという見方ができます。

実は集団存続のためには弱者と見なされている存在が必要

「働きアリの法則」という考え方があります。働きアリを観察すると、すべてのアリが勤勉に働いているわけではなく、常に3割のアリはサボっているそうです。だからといって、集団の中からサボっている3割のアリを取り除いても、残った7割のアリの3割は新たにサボり始めることになります。つまり、生産性が低い者、社会に利益をもたらしていない者を「自己責任論」によって切り捨てても、集団の中から永久に消えることはないのです。

なぜなら、集団を存続させるためには、常に全メンバーがフル稼働していることはリスクであり、一定量のバッファが必要です。また、進化のために、あらゆる環境に対応可能していく必要があり、そのためには均質性を高めるより多様性を高めておく必要性があるからです。2016年に発表された北海道大などの研究チームの実験結果でも、働かないアリがいることが集団存続に不可欠という見解が示されています。

頑張っている人ほど「努力をしていない(ように見える)人」を疎ましく思う気持ちはわかりますが、「自己責任論」で切り捨てるのではなく、もう少しだけ視線を上げて、自分と社会の中長期的な利益のためにも、弱者や多様な個性を持つメンバーを包含した社会の方が結果的にお得なのだという合理的な考え方を受け入れる心のゆとりも持ちたいものです。

註1:「What the World Thinks in 2007」The Pew Global Attitudes Project

(清水 泰志/経営コンサルタント)

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