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「先生も103歳まで生きそう、と…」66歳年下秘書が語った寂聴さん最後の日々

WEB女性自身 / 2021年12月5日 6時0分

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100歳の夢も語っていた瀬戸内寂聴さんの逝去は多くの人を驚かせた。寂聴さんの身に何が起こったのか。秘書・瀬尾まなほさんによれば、始まりは9月の肺炎による入院だったという。

「何か腹が立つことがあって、『絶対に先生に言おう!』と思ったとき、書斎を整理していて、原稿やゲラに書いてある先生の字を見たとき……、『ああ、もう先生はいないんだな』と、思い出してしまって、無性に悲しくなります。車を運転しているとき、夜中に目が覚めたとき……、『先生に会いたい』と、思わずつぶやき、涙があふれます。

いまも先生が遠くに行ってしまったという実感が湧きません。心をどこか遠くに置いてきたような、体だけ機械的に動いているような、そんな感覚で日々を生きています。

なぜか私は瀬戸内先生が103歳ぐらいまで生きると勝手に信じ込んでいて、先生も『103までは生きそうだね』と、そんなことを言っていました。だから私もこんなに突然お別れがやってくるとは考えていなかったのです」

11月9日に瀬戸内寂聴さん(享年99)が逝去してから10日ほどたったころ、“66歳年下の秘書”として知られる瀬尾まなほさん(33)が本誌の取材に初めて応じてくれた。

寂聴さんの大往生は多くの人々に衝撃を与えたが、いちばん喪失感にさいなまれているのは瀬尾さんだろう。瀬尾さんが大学を卒業してすぐに寂聴さんの秘書となってから10年。2人は、小説家と秘書という言葉だけでは言い表すことができない強い信頼関係を築きあげてきたからだ。

寂聴さんの知人のなかには、「90歳を超えた寂聴さんがあれだけ元気に活動しているのは、若い秘書さんといつも笑いあっているからだ」と、語る者もいた。そんな瀬尾さんが“先生との最後の日々”を初めて語る――。

「99年の生涯で、いろいろなことに挑戦してきた先生ですが、いま振り返ると、最後の最後、ぎりぎりまで作家として生きたのだな、と思います。朝日新聞のエッセイの連載や、『週刊朝日』の横尾忠則さんとの往復書簡の連載も楽しんで書いていました。でも特に、文芸誌の2本の連載について語るときは目が輝いていました。『群像』(講談社)の『その日まで』と『新潮』(新潮社)の『あこがれ』です。99歳でも文芸誌2誌に連載を持っているということは先生にとって誇りだったのでしょう。

“その日まで”とは、文字どおり先生の“最後の日まで”という意味で、1月には単行本が発売されることになっています。そんな先生が楽しみにしていたのは、ご自身の文学全集の刊行でした。20年ほど前に新潮社から『瀬戸内寂聴全集』として20巻が刊行されたのですが、来年からその続きが出ることが決まっていたのです。

実は7月ごろに私が聞き手になって、先生に質問をした内容をまとめた『今を生きるあなたへ』(SBクリエイティブ)が12月中旬ごろに出版される予定です。それに私が共同通信で連載しているエッセイ(※「まなほの寂庵日記」)も『寂聴先生に教わったこと』(講談社)として一冊にまとまることになっています。

『来年は先生も私も忙しくなりますよ! なにせ先生が(5月に)100歳になる年ですから。コロナ禍がおさまっていたら、盛大に100歳のお祝いもしましょうね。新潮社から全集も出ますし、(宣伝も)がんばりましょうね。あっ、私の本もいっしょに宣伝してくださいね(笑)』

そうお願いしたら、先生が『あとがきでも何でも書いてあげるよ!』と、言ってくださったことも、思い出になってしまいました。増補された立派な文学全集が、書店の棚に並んでいる光景を先生には見てもらいたかったです」



■9月に風邪をこじらせて肺炎で入院

今年5月に掲載された本誌のインタビューでも、新しい長編小説の構想を温めていることなど、100歳への意気込みを語っていた寂聴さん。だが体調に異変が生じ始めたのはこの9月だったという。

「風邪をこじらせた肺炎で入院したのです。以前の元気な先生であれば風邪をひいても、風邪のままで治っていたものが、入院という事態になったことに少し不安を感じたことは確かです。『これからは熱が出たり、ちょっとした体調不良があったりしたら、いままで以上に注意しなければいけないな。先生もそういった年齢になったのだな』と、さらに気を引き締めました。

それでも9月の入院は、これまで経験してきた入院と同じような感じで、特に緊迫感はありませんでした。先生は大のコーヒー党で、『飲みたい、飲みたい』と言いますから、病院に行くと必ずコーヒーを入れていました。それにシュークリームを添えて出すと、喜んでくれたのです」

人に会うのが大好きだった寂聴さんだが、コロナ禍のなかで、人と会うことも2年間控えていた。そんな寂聴さんを楽しませていたのが、瀬尾さんの長男の成長だったという。

「今年12月に2歳になるのですが、息子はしっかり意思表示をするタイプのようです。最近の先生はリハビリで廊下を歩くのも面倒くさがるほどでした。でも息子は寂庵に遊びに行くと、そんな先生を小さな手で引いて連れ回していました。

台所にある椅子に座っていた先生を、応接の和室に連れていったり、先生の寝室に連れていったり……。いつもだったら『もうしんどいよ~』と言って嫌がったでしょう。でも先生は息子といっしょだと、お互いを支えるようにしながらうれしそうによく歩いていましたね。

先生は『この子、私に命令してくるんだよね』と、言いながらも、『すごく意思がはっきりしている』『この子は生きぬく力を持っている』と、いっぱい褒めてくれたのです。だから9月に入院したときも、よく息子のことが話題になっていました。毎日話すのは、息子がいつしゃべり始めるかということ。先生は息子とおしゃべりすることも楽しみにしてくれていたと思います。

これは先生が一度退院したときの話なのですが、息子にこんなふうに話しかけていました。『ママが早く2人目の赤ちゃんを産んでくれて、あなたがお兄ちゃんになるといいね』と――」



■「病院で死ぬのは嫌だ。寂庵で死にたい」

9月末に退院した寂聴さん。しかし5日後には再入院することになった。

「10月に5日間だけ寂庵に帰ってきたとき、いつもの台所の椅子から庭を眺めながら、『やっぱり病院で死ぬのは嫌だ。寂庵で死にたいね』などと言っていましたが、本人もそれほど真剣に考えていたわけではなかったと思います。

確かに先生はこれまで何度も入院していますが、そのたびに不死鳥のように回復し、仕事を続けてきました。ですから再入院でも私たちスタッフは、『今回は、いつごろ退院できるかな』ぐらいに考えていたのです。先生も退院に向けての歩行のリハビリを続けながら、

『早く、寂庵に帰りたいねぇ』と、繰り返し話していました。あまり帰りたいと言い続けるものですから、お医者さんも『じゃあ、もう退院しましょうか』と、おっしゃっていたほどです。

いまも不思議に鮮明に覚えている会話があります。『マスクの上の、目からおでこがすごくきれいだね』、そう先生が何度も言ってくださったのです。それで私も『先生、マスクで見えないですけれど、口角の上がっている唇もいいんですよ(笑)』、そうお返事しました」

退院を希望し続けていた寂聴さんの体調が急激に悪化したのは10月末だった。

「急変する前日まではふつうにお話ししていたのです。夜になって私が病院を出るとき、『明日また来ますね』とご挨拶して、先生が『ありがとう』と……。先生と私は2人ともおしゃべりですから、この10年間ですごい数の会話をしてきたと思います。ですが、このやりとりが私と先生の“最後の会話”となってしまいました。

翌日からは、しゃべるのもしんどそうで、意思表示も私が話しかけたことに、うなずいたり首を振ったりということになりました。入院中はひまなので、ご友人たちとは病室でスマホでおしゃべりしていたのです。それもできなくなり、『寂聴さんの携帯電話が通じないのですが……』と、心配したご友人たちから、寂庵に問い合わせのお電話がかかってくるようになりました。電話の呼出し音が聞こえなかったのか、私がかけてもそうでした。

容体がよくならないため、先生の娘さんも駆けつけてきて、いつも誰かが、ベッドのそばに付き添うようになったのです。11月8日の夕方、先生と私が病室で2人きりになったことがあります。そのときはベッドで横になっている先生にいろいろなご報告をしました。先生がお留守の寂庵で起こったできごと、先生がかわいがってくれた私の息子のその日の様子……」

寂聴さんが旅立ったのは、それからおよそ半日後の、11月9日6時3分だった。

「連絡があって、いま寂庵に勤めているスタッフ全員が病院に駆けつけ、娘さんとともに看取らせていただきました。苦しまなかったので、まるで眠っているような、いまにも起きてきてくれそうな、本当にいいお顔でした。いま考えても、あの日の夕方に先生と2人だけの時間が持てたことは本当によかったと思います」



■最後まで遺言を書かなかった寂聴さん

寂聴さんが名誉住職を務めていた岩手県・天台寺には記帳のために大勢の人が訪れた。また12月9日(木)13~16時、京都の曼陀羅山 寂庵では「偲ぶ会」が開催される。式典はなく、寂聴さんを慕う人たちが焼香をするための会だという。

寂聴さんと瀬尾さんの対談集『命の限り、笑って生きたい』(光文社)のあとがきには、寂聴さんのこんな言葉も掲載されている。

《「周りが迷惑するから、早く遺言を書いてください」、会計士の先生と顔を合わせるたびに、そうせっつかれているんですけれど、いざ遺言を書こうとすると次々と事件が起こるから、全然書く暇がない。結局、書けないんじゃないかしら》

「法話の会でも遺言についてお話ししていましたが、先生は正式な遺言も覚書も残してくれなかったので、今後のことを決めるのは大変です。密葬は身内だけで寂庵で済ませました。お骨は、お墓を作った天台寺には納めると思いますし、故郷の徳島にも分骨することになると思います。

決まっていないのは私自身の今後も同じです。先生が、『まなほには才能があるのだから、(文章を)書いていく覚悟を決めなさい』と、真剣な表情でおっしゃってくださったことを昨日のことのように覚えています。しかし、ものを書いて生きていくことの厳しさは、先生のそばにいたからこそ、身に染みてわかっています。それに私を励まし続けてくれた先生はいなくなってしまいました……。

笑わせたい、喜んでもらいたい相手を失って、何もやる気が起きません。私の人生は瀬戸内寂聴という人に出会って大きく変わりました。先生はたくさんのことを教えてくれましたし、私にチャンスをくれました。

いっしょに過ごしたこの10年間がどれほど尊く、どれだけ先生が私に与え続けてくれたことかもわかっています。先生がいたからこそ私は前へ進んでこられました。後ろを向くと、そこには必ず先生がいて、『あなたなら大丈夫』と言ってくださったから、何でも挑戦できたのです。最後までそんな先生のおそばにいられたことも感謝しています。

……それでもやっぱり、もっと一日でも長く、先生といっしょに過ごしたかったという気持ちを消すことはできません。心をどこか遠くに置いてきてしまったような感覚のまま、それでも私が秘書として業務をこなしているのは、“先生に褒めてほしい”という思いがあるからです。

先生の秘書として役目を全うしたいと強く思います。先生の納骨、たくさんの方が集まることになる『お別れ会』、お寺関係のことなど、落ち着くまでは膨大な仕事があると思います。正直、すでにキャパオーバーで、10年間のなかで、いちばんきつい日々です。

でも私がそれらをがんばれば、『ああ、まなほはよくがんばったね、よく働いたね、お疲れさま』と、先生があの笑顔でねぎらってくれるのではないかと……。いまはそんな思いが私の支えになっているのです――」

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