東京「オペラ神社」女性宮司の町おこし奮闘記

WEB女性自身 / 2014年1月20日 7時0分

東京スカイツリーのお膝元からひと駅先の、時代に取り残されたような地。そこに鎮座する歴史ある神社が今、町の注目を浴びている。宮司でオペラ歌手の花見桂子さん(57)は神社で歌う。その歌声で、高齢化が進む町ににぎわいを復活させるためーー。
 
平成25年(2013年)11月3日、東京都墨田区八広、曳舟駅から歩いて10分の三輪里稲荷神社(こんにゃく稲荷)で第4回奉納演奏会(無料コンサート)が行われた。午後4時、神社境内の神楽御前、通路を挟んで両側に並んだ400席の椅子は埋まりかけている。
 
地上に降りた神々たちの『神話語り』に続いて『オペラの名曲アリア』が始まる。プログラムには、『誰も寝てはならぬ』『私の名はミミ』(プッチーニ)など有名なオペラの曲目が並んでいる。こんにゃく稲荷合唱団が歌う『舟歌』(オッフェンバック作曲、歌劇『ホフマン物語』より)では、地元の女性が中心の合唱の歌声に温かい拍手が送られた。
 
演奏が終わるとこんにゃくの味噌田楽やお汁粉、お神酒が振る舞われた。どの顔も笑顔でいっぱい。演奏会によって、人々のつながりが広がった。桂子さんの、宮司としての町との関わり方、神社のあり方が少し見えてきた日だった。
 
花見桂子さんは昭和31年(1956年)7月14日、宮司の父・収さん、母・悦子さんの3人兄妹の末っ子として東京都墨田区八広に生まれた。小さいころから音楽好きな桂子さんは、現役で難関の国立音大に合格し進学。
 
国立音大大学院の2年のとき、桂子さんに大きなチャンスが訪れる。世界的な指揮者オトマール・スウィトナーが指揮・演出した学生による日本初演のヘンデルのオペラで主役に抜擢されたのだ。公演は大成功、演奏も絶賛され、このオペラは、この年のウィンナー・ワルド・オペラ賞を受けた。
 
優秀な成績で音大を卒業後、桂子さんは念願の声楽家研究団体である二期会に入った。オペラ歌手として忙しい日々を送るようになる。父・収さんが亡くなった翌年、平成4年(1992年)10月5日に結婚。結婚後も、オペラ活動を続け、区民オペラで主役を務めていたとき、桂子さんのおなかに子供が宿る。
 
その後、2人目の子供も授かり、子育て優先の幸せな日々を送っていたが、平成12年(2000年)5月29日、生活が一変する。父の跡を継いで宮司を務めていた長兄・健一さんが急逝したのだ。花見家の次兄は、すでにサラリーマンとして一家の生活を支えていた。宮司の跡を継ぐのは彼女しかいなかった。幸いなことに、桂子さんは28歳のとき、父が軽い脳こうそくで倒れたことがきっかけで、神職の資格を取得していた。
 
「長兄も体が弱かったので、跡を継ぐこともあるかもしれないと予感がしたんです」(桂子さん・以下同)
 
資格は持っていたが、神事について具体的なことはほとんど何も知らなかった。宮司として覚えなくてはならないことが山積みだった。新たな書類も役所に提出しなくてはならない。神社経営のノウハウも学ばないといけない。また、あらためて町の変貌ぶりにも驚かされた。町工場は後継者がなく、廃業。若い人は街を去り、高齢化が進んでいる。商店街も名ばかり、かつての活気はなかった。
 
「昔、神社は社交場だった。可能な限り、地元の人たちでやろうと企画したのです」
 
神社を『社交場』として復活させたい。そうして始まったのが平成22年の第1回奉納演奏会だった。桂子さんが何より、うれしかったのは車椅子で演奏会に来てくれた人の「ありがとう、音楽を聴きたかったけれどなかなか出掛けられない。近くの神社なら気楽に来られる。本当にうれしい」という言葉だった。桂子さんが動くことで、町の人々にも動きが出てきた。桂子さんは確かな手応えを感じ始めていた。
 
「神社が中心となって今までにない人と人のつながりをつくりたい」
 
平成26年は御鎮座400年。9月6〜7日式年大祭がある。桂子さんは、にぎわいと夢にあふれた神社と町づくりを目指す。

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