蜷川実花の新ドラマに「昭和の価値観」と批判の嵐…蜷川実花にイラつく8つの理由

女子SPA! / 2020年3月20日 8時46分

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(画像:Netflix Japan Instagramより)

 2月末から世界190か国で配信が開始された「FOLLOWERS」は、写真家・蜷川実花がはじめて手掛けた配信ドラマである。

 これが配信早々、なかなか辛辣(しんらつ)な批判に晒(さら)されている。的確過ぎる批判コラム(『「新世代のリアル」をテーマにしたNetflixの「FOLLOWERS」が化石みたいな価値観まみれな件について』)がバズり、それに賛同した社会学者の岸政彦が“冒頭の10分ぐらい見て耐えきれなくなって見るのやめた。脚本や演出だけでなく撮影も美術もすべてがとにかく凡庸で陳腐きわまりない”(3月4日のツイート)と肯定ツイートしていた。アイタタ……。

 匿名アカウントの無責任な言葉と比べ、文化系の知識人たちが論理的な文章で良くない点を挙げて、それが拡散されていくと否定意見が圧倒的に正義になっていく。「賛」の人は、インスタやYou Tubeユーザーの若い世代や女性などで、シンプルに「面白い!」「可愛い」「萌える」というような反応なので、否定派の論理にはかなわないのである。

◆蜷川実花をモデルにした主人公はツッコミどころに溢れている

 最たる否定ポイントは、描かれている女性の生き方に昭和の価値観がこびりついていて、令和のいまにふさわしくないというようなものである。

 確かにそうで。主人公である、蜷川実花自身をモデルにしているとされる人気フォトグラファー(中谷美紀が金髪ショートにしてビジュアルも蜷川に似せてきている)が、地位も名誉も名声もお金も人脈も何もかも獲得し上り詰めた末、子供を生み育てるという女の特権も獲得しようと足掻(あが)くお話はツッコミどころに溢れている。

 それと、物欲旺盛の登場人物たちの姿は、富裕層と貧しい層の格差拡大が危ぶまれるいま、その分断(富裕層側)に加担しているところが気にかかる。

◆蜷川実花の映画はどれもたいていネットの生贄になってきた

 このような蜷川実花批判は「FOLLOWERS」に限ったことではない。むしろ、また蜷川実花が……という印象だ。

 蜷川実花は過去、写真家としての活動の傍ら、映画作品を数本撮ってきて、そのどれもがたいてい批評の礫(つぶて)を食らってきた。安野モヨコの人気まんがを原作にしたデビュー作「さくらん」(07年)はデビュー作ということもあってまあまあ見逃されていたような気がするが、岡崎京子の代表作のひとつ「ヘルタースケルター」(12年)、昨年、公開された2作「Diner ダイナー」(19年)、「人間失格 太宰治と3人の女」(19年)などは賛否両論が渦巻いた。

 以前は、興行成績さえよければ、否定の声は埋もれてしまう傾向があったけれど、いまはネットであらゆる声が可視化される。誰もが公平に意見を言えることによって炎上という地獄を生き残っていかないといけない時代、蜷川実花は格好の生贄(いけにえ)になっているように思う。

 ではここで、改めて、蜷川実花の何がそんなにイラつかせるのか、ポイントを8つ挙げてみよう。

◆1.おいしいとこどりしている感

 これまで映画は撮るが、意外とドラマには手を出していなかった蜷川実花。低予算のテレビドラマには目もくれず、予算豊富、世界配信、という好条件のネトフリと組むところがさすがである。

「FOLLOWERS」にはGIVENCHY、Dior、GUCCI、ルブタン、ティファニーなどハイブランドの服や靴やアクセサリーの数々が登場し、パーティー会場やアートの展示会場、登場人物の部屋や仕事場なども、昨今の邦画やテレビドラマにないゴージャスさで、テレビドラマや邦画では制作不可能であろう。

 不況の世の中で、なぜ、蜷川実花ばかりが予算を使いたい放題(に見える)なのか

 ナットクいかない。

 また、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事もやっていることも、オリンピック特需にすかさず関わる感じがしてしまう(いまはオリンピックもどうなるかわからないが)。

◆2.七光り感

 これはご本人が長らく気にしていたことであり、世の中の人に嫉妬を覚えさせる点である。

 蜷川実花の父は世界的な演出家・蜷川幸雄で、写真家としてデビューしたとき、そのことを伏せていたそうだが、なかなかない名前なので、なんとなく関係があることが周知されてしまい、そうすると、“親の七光り”に違いないと思われてしまう。常にバイアスをかけて見られ、本人の本質を見てもらえない、二世によくある悩みである。

 蜷川幸雄が2016年に亡くなってからは、そのバイアスがなくなって、いまや蜷川といえば「蜷川実花」の時代がやってきたかと思ったら、「DINER」で藤原竜也、「人間失格」で小栗旬と蜷川幸雄組の一員だった俳優を主役にして、蜷川幸雄の演出方法のオマージュもふんだんに行うという特権を駆使していた。これは追悼および魂の引き継ぎという美しい意味も当然あるはずだが、やっぱり蜷川幸雄の威光を着ているとも思ってしまう人はいるのである。

◆3.よそ者感

 ネトフリは園子温(「愛なき森で叫べ」)や武正晴(「全裸監督」)などキネマ旬報など専門誌でも評価されるような、いわゆる映画畑の作家が参加していて、映画がなかなか自由に作れない時代、チャンスのない映画作家にもチャンスを与えてほしいと願う人も多いなか、そこそこ観客が入るが映画としてあまり評価が得られていない蜷川実花が作品を撮れてしまうという状況が面白くない人って少なくない気がする。

 映画に限らず、テレビドラマも、医療ものと刑事ものとイケメンものしかつくれず鬱々としたプロデューサーやディレクターもいるはずで、蜷川実花は写真だけ撮っておけ、東京オリンピックパラリンピック競技大会組織委員会理事として働いておけ、と思う人もいるのはわからなくはない。

 私も昔、演劇ライターやりながら映画の仕事をしていたら、「演劇だけやってろ」と映画ライターのひとたちにすごく虐(いじ)められたことがある。ヒトは自分の領域を脅かす、よそ者には冷たいのである。

◆4.文化の香りがしない感

「FOLLOWERS」は物欲、性欲、名誉欲……とあらゆる欲望が描かれていて、それがいま不況にあえぐ日本に不似合いではないかという不満が募る。しかもこれだけ多くの欲望を描きながら、文化や教養などへの知識欲がまったく見当たらないのである。

「FOLLOWERS」で唯一の文化はタランティーノ。でもそこに愛があるとはあまり思えない。弁の立つ人たちが蜷川実花を批判したがる理由は、このように共通の文化体験が作品のなかに見つけられないところが最も大きいのではないだろうか。かろうじて、安野モヨコや岡崎京子、太宰治と原作者の文脈から何かを語ることができるのだが、蜷川実花の作風の文脈がみつからない。

 とりわけオリジナルの「FOLLOWERS」には何もない。ここまで空っぽにするほうが逆に才能のような気がするのだが、語りたい人にとっては寄る辺がないのである。

◆5.意外と女を武器にしてる感

「FOLLOWERS」では、女に生まれたからには子どもを産まなくちゃという思いがまるで、ファッションアイテムのコレクションのひとつのように描いているように思われてしまう描き方。

 いまは、男とか女とか分ける時代ではないし、子どもを生み育てながらどう働くか、様々な方法を考える時代にもかかわらず、仕事も子供も分母200%と、炎上広告のコピーみたいなセリフで、お金があるなら預けて仕事しろ、と怒る人が出てきてしまう。#KuToo時代にあえて、高いヒールのルブタンを履く矜持を描くところも、ズレているっちゃズレている。

 もともと、蜷川実花は、女の子ならではの視点で撮られた写真という、男性の権威者たちがつくったジャンルからデビューしたという出自が、いまだにマイナスに働いているともいえるだろう。ちょうど、今年、その文化のひとりとされていた長島有里枝が、『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』という著書を上梓したタイミングもあり、ますます蜷川実花に逆風が吹くのである。

◆6.うちわ感

 映画やドラマには、◯◯組や◯◯ファミリーなどと呼ばれる、監督やプロデューサー作品の常連の俳優がつきもの。自分の世界をよく理解してくれて、阿吽(あうん)の呼吸で仕事ができる才能は大事にしたいのは当然なのだが、やりすぎるとはなにつくところがあって、蜷川組の場合もSNSなどで仲良しアピールが盛んな感じがするし、「FOLLOWERS」はとにかくお知り合い総動員で、派手さのみで勝負しているところに遊びと仕事が混ざってしまっているような印象を受ける。

「仲良し」はみんな好きで、タレント同士がSNSにアップする2ショットや誕生パーティーの集合写真や仲良しエピソードを読むことは大好物だが、蜷川実花の場合、なぜか、どうせ私たちには関係ないし……という激しい疎外感に苛まれるのである(他のタレントだって一般人は蚊帳の外なんだけれど)。

◆7.叩いてもいい感

 どんなに蜷川実花を叩いても、彼女は困らないイメージがある。メンタル強そうだし(あくまでイメージ)、地位も揺らがなそうだし、経済的にも困らなそう。

 蜷川実花を「古い」と曝(さら)すことは、性差や年齢、出自などを差別することとは別枠として、なぜか知的な職業の人には認められているようなところがある。

 彼女を批判することで、現代をキャッチする感覚の正当性を確かめることができ、なにか不思議な満足感を得られるのである。

◆8.とにかくあの派手な色が苦手感

 これはもう趣味でしかなく、過剰な極彩色の色味が苦手な人はいると思う。

 以上、8つにまとめてみた。おもしろいのは、偉大なる父親と比べられることを避けてきた蜷川実花が、父・幸雄がアングラから商業演劇に活動の場所を移したとき、演劇界から孤立し、演劇界の評論家たちから認められない時期があったいう意外な過去をうっすらなぞっているように見えることだ。

 蜷川幸雄はそのとき演劇以外の評論家やライターに助けられたとよくインタビューで振り返っている。蜷川実花の味方は圧倒的に、強い言葉をもたない、キレイやかわいいが大好きで難しいことを考えない一般層である。

「FOLLOWERS」には「汝(なんじ)の道を進め。そして人々をして語るに任せよ」というセリフがあり、これが蜷川実花の信条であろうと考えると、自主的に孤高の生き方を選んでしまう性分なのだと思える。これからも、誰に何を言われても自分を曲げないにちがいない。それがまた苛(いら)ついて、批判が出る。その繰り返しもエンターテイメントなのかもしれない。

 より良い世の中を求めて、時代のアップデートを見つめていく知的エリートたちが、旧さを理由にひとりの女を責める構図に私は、旧世代の没落したお金持ちと新世代の労働者の哀しい対立のなかで狂気なまでの己の夢に生きるヒロインを描いた「欲望という名の電車」を思い浮かべる。蜷川実花にはいつか「欲望という名の電車」を撮ってほしい。

<文/木俣冬>

【木俣 冬】

フリーライター。ドラマ、映画、演劇などエンタメ作品に関するルポルタージュ、インタビュー、レビューなどを執筆。ノベライズも手がける。『みんなの朝ドラ』など著書多数、蜷川幸雄『身体的物語論』の企画構成など

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